信濃国
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# 旧東山道。

# 現在の長野県

# 太閤検地での石高: 41万石。【戦国大名県別国盗り物語 八幡和郎 PHP文庫】

# 延喜式による国力順位(納税額による)【本当は面白い「日本中世史」 八幡和郎】。信濃国は12位。

#  「信濃」は「科野(シナノ)」「階野(シナノ)」。「シナ」は、「傾斜地、坂」の意味。古事記では科野と書いたが、日本書紀風土記では「信野」や「信濃」と書いた。

# 信濃: 語源は諸説有るが、「シナ(たわんだ地形)」+「ノ(野)」で、「段丘」をいった説が妥当ではなかろうか。【出典

# 信濃の由来
・ 「山国にて級坂(しなさか)あれば地の名となりけん」と、国学者の賀茂真淵は書いてある。
・ 科野(しなの): 科の木があちこちに生えていた。科野が信濃になったのは奈良時代の初期。

# 古事記の国譲りの神話によると、「科野(しなの)の国の洲和(すわ)の海」との表記が出てくる。奈良時代初期に信濃にかわった。科野はシナの木に由来するという説や山国の科坂説がある。

# 科野の由来
(1) 信濃風土記: 諏訪大社を開いた建御名方神(たけみなかたのかみ)の住むところの名前で、木葉草垣葉などの品々が豊富であったことから「品野」といわれた。
(2) 山国の階坂(しなさか)に由来する。
(3) 科の木が多いから。
(4) 風の神の名より出たとする説。
(5) 科野は篠野(しぬぬ)より転訛した。
(6) シナヌはアイヌ語説。
(7) 佐依志野(さよりしぬ)から変化した。佐依志野という神様がこの地を作った。
(2)(3)(5)が有力らしい。
・  科野が信濃になったのは奈良時代の初期。

# 757年に孝謙天皇が「高麗(こま)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の人たちで、以前より天皇の徳化を慕って来朝し、我が国の風俗になじみ、姓を給わることを望む者には、すべてそれを許し認めよ。」と勅令を出した。その後、中信から北信にかけての筑摩(つかま)郡に多くの高句麗人が渡来した。

# 越の国から姫川(糸魚川市)をつたって奥地を開拓した。これが信濃?

■ 佐久郡(さくぐん)

■ 更級(さらしな)郡: 信濃国更級郡更級郷(長野県更級郡)。「更(さら)」は「まっさら」の「さら」で「新しい」こと。「級(しな)」は「科(しな)」で「笹」のこと。【出典

・ 更級郡: 「サラ(崩壊地形)」+「シナ(段丘)」で、「崩れやすい段丘」のことか。【出典

■ 諏訪(すわ)郡: 養老5年(721年)に信濃国から諏訪国が分離したが10年後にはまた信濃の国に併合された。

■ 小県郡(ちいさがた): 長野県(旧信濃国)。「和名抄」の訓は「知比佐加多」。郡名の由来は、一説に多氏が信濃国造であった頃最も近い血統にあった一族の小子部氏に支配させた県(あがた)であったことによるという。また一説には、「和名抄」に見える埴科郡英多(あがた)郷は本来大県(おおあがた)で、これに対し千曲川上流に小県が置かれたことによるともいう。【出典
・ 平安末期に郡内に勢力を張った武士としては海野・禰津・丸子・依田・塩田・長瀬らの諸氏がある。

■ 筑摩郡: 「続日本紀」によると、757年に孝謙天皇は「高麗・百済・新羅の人たちで、以前より聖化(天皇の徳化)を慕って来朝し、我が国の風俗になじみ、姓(氏)を給わることを望む者には、すべてそれを許し認めよ。」という勅令を出した。789年、「信濃国筑摩郡」の「宗守豊人(むねもりのとよひと)」らに「田河造」の氏姓を賜った。現在の長野県松本市の田川の地名のルーツと聞く。その後、中信から北信にかけての筑摩郡には多くの高句麗人が移り住んだ。麻績は渡来人の居住の中心地だった。
# 深志郷(ふかしのごう): 信濃国にみられた郷名。筑摩郡のうち。のちの松本にあたる。女鳥羽(めとば)川など諸河川がつくる湿地帯であったらしく、「信府統記」に「古此辺ヲ深志トモ深瀬トモ称へ来レリ」とある。【出典

■ 水内郡
# 尾張郷(おわりのごう): 長野県長野市尾張部。平安時代に信濃国水内郡にみられた郷名。東急本の訓は「乎波利倍」、高山寺本の訓は「乎波利」。郷名は尾張氏部民の住んだ郷の意か。尾張氏はもと大和国葛城の高尾張から発祥した氏族という。【出典


# 続日本紀大宝元年(701年): 8月21日: 参河(みかわ)・遠江・相模・近江・信濃・越前・佐度・但馬・伯耆・出雲・備前・安芸・周防・長門・紀伊・讃岐・伊予の十七カ国にイナゴの発生があり、大風が吹き人民の家屋が損壊し、秋の収穫に被害が出た。 

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