愛媛県内の「河野」の名字の詳細
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■ 県内17位: 河野(かわの、こうの): 愛媛県の河野家 

# 愛媛県の河野家: 伊予国の河野郷(愛媛県松山市)をルーツとする。古代豪族越智氏庶流。平安時代末期から水軍を擁して勢力をはったが、戦国時代長宗我部家に敗れて没落した。

・ 伊予国の戦国大名古代豪族越智氏末裔文武天皇の時代に越智玉輿が伊予大領となり、弟の玉澄が河野郷(愛媛県松山市)に住んで河野氏を称したと伝える。好方は941年の藤原純友の乱の鎮圧に活躍し、以後水軍を擁して中予地方に勢力を振るった。1180年に源頼朝が挙兵すると、通清・通信父子がいち早く呼応して伊予で挙兵。通信は西下してきた源義経の軍勢に加わり、屋島の合戦などで功を上げた。通信は1189年の奥州攻めにも参加し、鎌倉幕府の成立後には御家人となった。承久の乱では、通信は上皇方に属して敗退、通信は陸奥国平泉に流された他、通俊は戦死、通政は斬首された。唯一、幕府方に参加した通久のみ久米郡石井郷を与えられ河野氏は存続した。元弘の乱では通盛は幕府方に与したが、後に足利尊氏に属して湯築城に拠った。南北朝時代には、庶流得能氏土居氏が南朝方に付く中、通盛は北朝に属し、子の通朝は1350年に伊予の守護となって、以後世襲した。1409年に通之は家督を甥の通久の譲った後、新居郡高峠城に拠って伊予東部を支配して予州家と呼ばれ、以後宗家と対立した。応仁の乱では西軍に属した。戦国時代、通直は嗣子がいないため来島城主の村上通康を迎えようとしたところ、家臣は予州家の通政(晴通)を押して分裂。結局、通政に家督を譲ったものの通政は早世し、弟の通宣が継いだ。以後も一族内はまとまらず、1583年の長宗我部元親の伊予侵攻に際しては、通直の実子の伊予守通直が家臣団を率いて敗れ、元親に降った。1585年豊臣秀吉の四国攻めでは湯月城に籠城したが、小早川隆景に降伏。以後は小早川氏の水軍となり、通直は安芸国竹原で病死して嫡流は滅亡した。【出典】 

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