「堤」の名字の由来
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■ 堤(つつみ)

【2023/02/20:改編】

# 鎌倉殿の13人と名字

# 代表家紋

# 堤(つつみ): 陸奥国東津軽郡の国衆清和源氏南部氏の一族。明応7年(1498年)に南部信時の四男の堤弾正光康が堤ヶ浦(青森市松原)から横内に転じ、横内城(青森市横内)に拠ったが、天正13年(1585年)に津軽為信に滅ぼされた。【出典

# 豊後国日田郡有田郷堤から起きたのは大友氏族で大友能直の五世の久茂が堤駿河守を称した。同地の豪族だが、筑後の堤氏は別流で、この系は後に龍造寺氏鍋島氏に仕えた。信濃国には水内郡堤発祥の信濃源氏で、源為公の後裔の為氏の系、陸奥国では津軽郡堤より出た南部氏族、その他堂上公卿や伊勢神宮神官の名流。代表家紋は沢瀉紋桔梗紋」「九曜紋」「蔦紋」。【出典】【家紋のデータ

# 川沿いの堤防を意味する地形姓で、各地に見られる。【出典

# 公家の堤氏: 藤原北家甘露寺氏の庶流。1631年に、甘露寺時長の弟の貞長が一家を興し、子の輝長が堤氏を称した。家格は名家。明治時代には子爵。【出典

# 豊後国の堤氏: 出自不詳大友氏に従い、日田郡石井郷に住んだ。現在、大分県では西国東郡香々地町に多く見られる。【出典

# 筑後国の堤氏: 豊後国日田郡有田郷堤(大分県日田市)をルーツとし、前記の一族か。1462年に貞正が三潴郡に転じた。1560年に貞元は九重城を築いて、龍造寺氏に属した。江戸時代には佐賀藩士。【出典

# 大和国の堤氏: 越智氏代官を務めた。【出典

# 陸奥国の堤氏: 清和源氏南部氏の一族。横内城(青森市横内)に拠った。1585年に四代弾正のときに津軽為信に滅ぼされた。現在は青森県上北郡下田町(現おいらせ町)に多く見られる。【出典

# 材木問屋の堤家: 江戸時代、山城国紀伊郡上鳥羽村(京都市南区)に材木問屋の「輪屋」を営む堤家があった。【出典

# 現在は、全国にみられるが、比較的九州に多く見られる。なかでも佐賀県に多く見られる。【出典

# 群馬県の堤家

# 京都府の堤家

# 佐賀県の堤家

# 川沿いの堤防を意味する地形姓。【出典

# 比較的、九州に多く佐賀県にまとまってみられる。【出典

# 公家の堤家: 藤原北家甘露寺氏庶流明治維新後には子爵。【出典

# 筑後の堤氏は、豊後国日田郡有田郷堤(大分県日田市)をルーツとする。江戸時代には佐賀藩士。【出典

# 大和の堤氏は、越智氏代官を務めた。【出典

# 陸奥の堤氏は、清和源氏南部氏の一族。【出典

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