「伊賀」の名字の由来
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■ 伊賀(いが)

【2024/02/26:改編】

# 全国に2462軒【出典

# 美濃国池田郡の国人稲葉氏の一族か。太郎左衛門光就のときに、池田郡に住んで伊賀氏を称し、その子の伊賀守光就は山内盛豊の妻ノ姉をめとっている。その孫の守就(友郷)は土岐氏を経て斎藤氏に仕え、稲葉一鉄、氏家卜全とともに西美濃三人衆と呼ばれ、北方城(岐阜県本巣郡北方町)に拠った。1567年に西美濃三人衆は織田信長に通じて斎藤氏を滅ぼし、以後は信長に仕えたが、1582年の本能寺の変後、稲葉氏に襲われて落城。守就と弟の安東郷氏は討ち死にした。郷氏の子の可氏は美濃国の岩手城主の竹中重門のもとに逃れ、1585年に近江国長浜城主となった母方の叔父の山内一豊に呼ばれて山内姓を与えられ、その一門となった。江戸時代には土佐藩家老となり土佐国宿毛で7000石を領した。【出典

# 備前国津高郡の国人藤原北家秀郷流という。長田荘の地頭の式部氏の出で、戦国時代初期に虎倉城(岡山県岡山市北区御津虎倉)に転じた。久隆は宇喜多直家と縁戚関係を結んで美作国にも勢力を広げたが、1578年に讒言で宇喜多直家に毒をもられて死去。そのため、子の与三郎は宇喜多氏を離れて毛利氏と結び、同年に直家の弟の春家の金川城に夜討ちをかけ、毛利氏を頼って備中国に逃れた。【出典

# 伊賀国は垂仁天皇の子孫の伊賀国造が支配したが、伊賀氏はこの後裔が多い。中世以降は、藤原北家秀郷流の藤原公季の五世の朝光が伊賀守に任ぜられ、後裔の伊賀氏は鎌倉幕府内で重きをなした。族裔は奥州にも広まる。他流では、平氏の侍大将の伊賀家長は桓武平氏流といい、常陸国鹿島の地頭職はこの系。ほかに濃尾・伊予・土佐などにみられる。代表家紋は「柏紋」「茗荷紋」「藤紋」。【出典】【家紋のデータ】 

# 古代豪族の伊賀氏 

# 「伊」のつく名字

# 「賀」のつく名字

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