福岡県内の「黒田」の名字の詳細 | |
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■ 黒田(くろだ): 福岡県の黒田家
# 福岡県の黒田家: 福岡藩主。宇多源氏の佐々木氏の庶流で近江国の黒田氏の高政が、備前国邑久郡福岡(岡山県瀬戸内市長船町福岡)に移り住んだのが祖と言われるが未詳。豊臣秀吉のもとで織田信長に仕え、秀吉の九州平定後に豊前国の中津12万石。江戸時代には筑前国の福岡藩52万石。【家紋:黒餅】明治維新には侯爵。
・ 福岡藩主。1511年に近江の黒田氏の高政が将軍足利義稙の怒りをかい、備前国邑久郡福岡(岡山県瀬戸内市長船町福岡)に移り住んだのが祖と伝えるが、赤松氏の一族とも言う。孝高(如水)は豊臣秀吉の下で参謀として活躍。豊前中津12万石に入封すると、宇都宮氏、野中氏などの国衆を討っている。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、九州北部の西軍の諸城を次々と落とした。一方、子の長政は徳川家康の養女(保科正直の娘)を正室に迎えて、家康の側近となり、1600年に筑前福岡52万石へ。明治時代には侯爵。【出典】
・ 秋月藩(福岡県朝倉市)藩主。1623年に黒田長政の三男の長興が5万石を分知されて、夜須郡秋月に陣屋を構えたのが祖。しかし、藩内の分知とする兄の忠之が藩主の本藩によって江戸参府を妨害され、翌年密かに江戸に出て、三代将軍家光に謁見、朱印状を与えられて正式に大名となった。長興は1638年の島原の乱に際して藩兵2000人を率いて出陣した。明治時代には子爵。【出典】
# 福岡県の黒田家: 福岡藩の重臣で黒田兵庫助家。黒田官兵衛(如水)の弟の兵庫助利高を祖とする。
# 福岡県の黒田家: 福岡藩の重臣で黒田修理亮家。黒田官兵衛(如水)の異母弟の利則を祖とする。
# 福岡県の黒田家: 福岡藩の家老で三奈木黒田家。藤原北家の加藤氏の出で、摂津国の伊丹氏の一族。摂津国の荒木村重に仕えていたが、城内に捕らえられていた黒田官兵衛の脱出に功を成し、子が黒田家に仕えて黒田姓を称した。
・ 福岡藩の家老。藤原北家の加藤氏の出で、摂津の伊丹氏の一族という。重徳は伊丹親興の家臣だったが、1574年に親興が織田信長に叛いて荒木村重に討たれると、新城主となった村重に仕えた。1578年に村重によって捕らえられた黒田如水の牢番となり、栗山大膳の潜入を見過ごしたのが縁で、伊丹城落城後に、重成の二男の一成(みまさか)が如水に仕えて黒田氏を許された。江戸時代には筑前国下座郡で1万2000石を領して三奈黒田家と呼ばれ、代々福岡藩の筆頭家老を務めた。明治時代には男爵。【出典】
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