高知県の戦国史
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■ 高知県の戦国史

# 応仁の乱の際、戦乱を避けて奈良にいた教房(足利?一条?)が、土佐国の蓮池城主の大平氏の協力を得て、荒廃した所領の土佐国幡多荘(高知県四万十市)に下向し、中村に住んで土佐一条氏の祖となった。教房は荘内最大の湊だった清水湊(高知県土佐清水市)を掌握していた加久見氏と姻戚関係を結んだほか、国人の官職昇進の便宜を図るなどして在地武士を掌握した。子の房家は土佐国の国司になって、以後そのまま土着して幡多郡・高岡郡を支配し、戦国大名に成長した。【出典

# 土佐国守護細川氏で、守護代的な地位にあった大平氏や、細川氏の重臣の吉良氏が勢力をもった。【出典

# 永正5年(1508年)に、本山氏は山田氏吉良氏、大平氏とともに、細川家の家臣として力をつけてきた岡豊城主の長宗我部元秀を攻め、元秀は自刃して、子の長宗我部国親は中村の一条氏のもとに逃れた。【出典

# 永正15年に長宗我部国親は一条氏の支援を受けて岡豊城に戻って長宗我部氏を再興、天竺氏、十市氏、池氏など周辺諸氏を降したのち、有力氏族であった山田氏を滅ぼして戦国大名に成長した。【出典

# 本山氏は、森氏吉良氏を滅ぼして、長岡・吾川・土佐の三郡を支配する戦国大名になって、茂宗は朝倉城(高知市朝倉)に、子の茂辰は本山城に拠った。【出典

# 永禄3年(1560年)に元親が長宗我部氏を継ぐと、弟の親泰を香宗我部氏の養子に入れて同盟して、本山氏と対峙した。そして、永禄6年に本山氏は朝倉城を放棄し、永禄11年には長宗我部氏に降った。翌年には東部の名門の安芸氏を降して、天正2年(1574年)に一条兼定豊後国に追って、土佐一国を平定した。【出典

# さらに、阿波国の海部氏・三好氏讃岐国の十河氏、伊予国宇都宮氏河野氏らを降して、四国全域をほぼ支配したが、天正13年の豊臣秀吉の四国攻めで敗れて、再び土佐一国の領主に戻されて、豊臣政権下に属した。【出典

戦国時代とは

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