兵庫県内の「山名」の名字の詳細 | |
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■ 山名(やまな): 兵庫県の山名家
# 兵庫県の山名家: 但馬国の村岡藩主。守護大名の山名氏の末裔。
・ 村岡藩(兵庫県香美町)藩主。守護大名の山名氏の末裔。鳥取城を追放された山名豊国は、1582年に豊臣秀吉に仕えてお伽衆となった。関ヶ原の合戦では東軍に属して1601年に但馬国七美郡で6700石を与えられて交代寄合となり、七美郡兎束(うづか)に陣屋をおいた。三代の矩豊の時に陣屋を七美郡の村岡に移した。1868年に1万1000石に加増されて村岡藩を立藩。明治時代には男爵。【出典】
# 明治元年に交代寄合(旗本)から但馬村岡藩として独立した山名家は、山陰地方の守護大名の山名氏の末裔。上野国多胡郡山名(群馬県高崎市山名町)をルーツとし、清和源氏の新田氏流。新田義重の子の義範が山名に住んで山名氏を称した。1343年に時氏が丹波国の守護となった。1389年に山名氏の惣領の時義が死去した時点で、山名一族の領国は12カ国を数え、日本全国の六分の一を有し、「六分の一殿」と呼ばれた。このため、三代将軍義満は山名一族の勢力を削ぐために、山名氏の惣領権をめぐる内訌を利用して、1389年に氏清・満幸の時煕・氏幸を討たせ、さらに満幸も追放。満幸は挙兵したものの幕府軍に敗れた(明徳の乱)。その後は次第に勢力を回復し、1441年に嘉吉の乱で赤松義祐を討って再び10カ国の守護を兼ねるまでに回復した。応仁の乱では、山名持豊が西軍の総帥をつとめて、京の戦乱のなかにあるうちに、各地の領国は国人層の台頭で奪われ、戦国時代末期には所領は因幡国・但馬国のみになっていた。そして、1580年に豊臣秀吉によって但馬の出石城が落城、山名宗家は滅亡した。 一方、鳥取城主の豊国は羽柴秀吉に通じたが、毛利方の吉川元春の意向を汲んだ家臣によって城を追放され大名としての山名家は一旦滅亡、豊国は関ヶ原の合戦で東軍に属し、1601年に但馬国七美郡で6700石の旗本(交代寄合)となり、同郡兎束に陣屋をおいた。三代の矩豊のときに陣屋を同郡の村岡(兵庫県美方郡香美町村岡)に移した。1868年に義済のときに1万1000石に加増されて大名となり、その後男爵。【出典】
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