愛知県の戦国史
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu  
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 愛知県の戦国史

# 尾張国守護は、足利氏の一門の斯波氏で、享徳元年(1452年)に義健が跡継ぎのないまま死去したことから、義廉と義敏・義良(義寛)父子が対立した。応仁の乱が始まると、義廉は西軍に、義敏・義良父子は東軍に属して争った。さらに守護代織田家も分裂して東西両軍に属した。【出典

# 応仁の乱後、斯波義寛が守護になって、守護代には庶流だった清須織田氏の敏定がついて尾張国は統一された。しかし、本来嫡流だった岩倉織田氏は美濃国の守護代の斎藤氏と与して対立、北部を岩倉家(伊勢守家)、南部を清須家(大和守家)が分割して支配することになり、守護の斯波氏は傀儡となった。そして、清須家のさらに庶流の勝幡家(弾正忠家)の信秀が、当時水陸交通の要所で津島神社の門前町として栄えていた商業都市の津島を領して財力を蓄え、その子の信長が織田氏を統一し、斯波氏を追って尾張国一国を支配した。【出典

# 一方、三河国守護一色氏だったが、一色義貫が将軍の足利義教に討たれて以降は、阿波細川氏がつとめた。応仁の乱では細川氏は一族まとまって東軍として活動していたが、一色義直が守護復帰を目指して再起し、細川氏と一色氏の戦いになった。しかし、守護に代わって事実上支配していた守護代の東条国氏が討ち死にしたことで細川氏の勢力が衰えて、一方の一色氏も国衆戸田氏の侵攻を受けて衰退、三河国は群雄割拠の戦国時代に突入した。【出典

# 三河国松平郷の国衆だった松平氏が岩津に進出、松平信光は伊勢氏被官として京都で金融活動を行うなど、京との深いつながりも持っていた。信光の子の代になると安城家の親忠が惣領になって、内訌を経て清康は岡崎に拠った。その後、三河国の統一を目指して戦ったが、清康・広忠と不慮の死が続き、三河国は今川氏に併合された。永禄3年(1560年)に織田信長が上洛を目指した今川義元桶狭間で破って、これを機に松平元康(徳川家康)が独立。元康は東三河の各氏を降して三河国を統一した。【出典

戦国時代とは

統計表示