「山岡」の名字の由来 | |
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■ 山岡(やまおか)
【2022/12/27:改編】
# 代表家紋
# 大和国宇陀郡より起こるのは古代の葛野(かどの)連の末裔という家系と清和源氏の源頼政の後裔とがある。近江国発祥は大族で、甲賀郡山岡村より起こるのは景行天皇の末裔の伴氏族で、設楽・大原の庶流だが、子孫は徳川幕府に仕え、なかに幕末の山岡鉄太郎がいる。代表家紋は「木瓜紋」「二つ引き両紋」「桔梗紋」「扇紋」。【出典】【家紋のデータ】
# 近江国栗太郡の国人。大伴姓。伴善男の子の員助は外祖父に育てられて三河国幡豆郡司になって、助高のときに三河国追補使になって八名郡・設楽郡を領したという。貞景のときに近江国甲賀郡大原に転じて、大原氏を称し、景広のときに甲賀郡毛牧郷(滋賀県甲賀市甲賀町毛牧)に転じて毛牧氏を称し、さらには景通は近江国栗太郡大鳥居(滋賀県大津市)に住んで大鳥居氏を称した。永享年間に、資広が栗太郡山田岡に勢多城を築き、山田岡を短くした山岡氏を称した。以後、代々勢多城(大津市瀬田)に拠って、六角氏に従った。1569年に景隆のときに織田信長に仕えた。1582年の本能寺の変の際に、景隆・景佐兄弟と伯父の景民は、徳川家康の伊賀越えに協力。その後兄弟は豊臣秀吉に仕えたが、景佐は柴田勝家に属して所領を没収された。一方景隆の子の景宗は秀吉に仕えて近江国・河内国で1450石を知行。関ヶ原の合戦では西軍に属して没落した。その後、景宗・景佐ともに徳川家康に召し出されて、江戸時代には旗本。【出典】
# 「岡・丘」のつく名字。
# 「山」のつく名字。
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