「佐治」の名字の由来 | |
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■ 佐治(さじ)
【2023/05/22:改編】
# 因幡国智頭郡佐治郷(鳥取県八頭郡佐治村)をルーツとする。佐治郷の在地領主で、1213年に鎌倉幕府から佐治郷の地頭として安堵された。近江国甲賀郡佐治荘(滋賀県甲賀郡甲賀町)発祥の家系もある。現在は、愛知県の尾張地方に多く見られ、特に東海市や海部郡蟹江町に多い。【出典】
# 近江国甲賀郡の国人。甲賀郡佐治荘(滋賀県甲賀市)発祥。平業国の末裔といい、佐治城に拠った。1430年に室町幕府が鈴鹿関を定置させた際には、官幣使などの警固を佐治氏など四家に命じた。【出典】
# 尾張国知多郡の国人。甲賀の佐治氏の一族。室町時代には一色氏に仕えていたが、応仁の乱で一色氏の力が衰えると、独立して大野城(愛知県常滑市金山)に拠った。以後、知多半島に勢力を持ち、大野湊を中心に内海から幡豆ヶ崎(南知多町)に至る海域を支配した。のちに織田信長に属し、佐治信方は信長の妹である於大の方を正室に迎えた。その子の一成は豊臣秀吉に追放され、のちに織田信包に仕えた。【出典】
# 尾張国知多郡の国衆。甲賀の佐治氏の一族。室町時代には一色氏に仕えていたが、応仁の乱で一色氏の力が衰えると、独立して大野城(宮山城、愛知県常滑市金山)に拠った。以後、知多半島に大きな力を持って、大野湊を中心に内海から幡豆ヶ崎(愛知県南知多町)に至る海域を支配した。のちに、織田信長に属し、佐治信方は信長の妹である於大の方を正室に迎えた。その子の一成(信吉)は浅井長政の三女の江を娶ったが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の合戦後に出奔。のちに、織田信包に仕え、江戸時代には丹波国の柏原藩の家老になった。【出典】
# 因幡国智頭郡の国人。古代豪族の尾張氏の末裔。智頭郡佐治郷(鳥取県鳥取市佐治町)の開発領主で、1213年に重貞は鎌倉幕府から佐治郷の地頭が安堵された。南北朝時代、重泰は南朝に属していたが、1336年に名和長年が敗死すると北朝方に転じた。しかし、観応の優乱では当時南朝方だった山名氏に従っている。室町時代中期には室町幕府の奉行衆の斎藤氏の代官として実質的に佐治郷を領した。【出典】
# 「佐」のつく名字。
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