熊本県内の「細川」の名字の詳細
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■ 細川(ほそかわ): 熊本県の細川家 

# 熊本県の細川家: 熊本藩主清和源氏の出で、和泉国守護細川家庶流。【家紋:細川九曜紋明治維新後には侯爵

・ 熊本藩主。三淵晴員(みつぶちはるかず)の二男の藤孝が、将軍足利義晴の命で細川元常の養子となったのが祖。1565年に将軍義輝が京都で暗殺されると、義輝の弟で大和興福寺に監禁されていた一乗院覚慶(足利義昭)を救出して諸国を流浪、後に織田信長の支援を得て上洛し、義昭を15代将軍の座につけた。1573年に義昭が追放されると信長の家臣となり、1580年に丹後宮津(京都府宮津市)に築城して拠った。忠興は徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦後に豊前中津39万5000石に加増。1602年に豊前小倉に居城を移し、1632年に肥後熊本54万石に転じた。明治時代には侯爵。【出典

# 熊本県の細川家: 高瀬藩主熊本藩主の光尚の二男の利重が1666年に肥後国玉名郡高瀬3万5千石を分知され立藩。

・ 高瀬藩(熊本県玉名市)藩主。熊本藩主の細川光尚の二男の利重は、1666年に兄綱利より玉名郡高瀬3万5000石を分知され、熊本新田藩主となったのが祖。江戸鉄砲洲に上屋敷があったことから、鉄砲洲細川家とも言われた。1868年に高瀬藩と改称。【出典

# 熊本県の細川家: 宇土藩主細川忠興の四男の立孝の子孫が長岡家を称し、江戸時代には熊本藩家老を務め、明治後細川姓に戻した。

・ 宇土藩主熊本藩の初代藩主の細川忠興の四男の立孝(早世)の子の行孝は1646年に藩主光尚から3万石を分知されて宇土藩を立藩した。明治時代には子爵。【出典

# 熊本県の細川家: 熊本藩家老。細川刑部家。熊本藩主の細川忠利の弟の興孝が1646年に2万5千石。後に長岡姓改称して熊本藩の家老1万石。明治後細川姓に戻した。 

・ 熊本藩家老。熊本藩主の細川忠利の弟の興孝は1646年に一家を興して2万5000石を与えられた。1664年に、孫の興知の時に長岡氏改称して熊本藩の家老の刑部家となった。家禄1万石。1870年に興昌の時に細川氏に復姓し、興増の時には男爵。【出典

# 熊本県の細川家: 熊本藩家老細川忠興の長男の忠隆の子孫は長岡家を称して、熊本藩家老の内膳家となった。1871年に忠顕は細川氏に復姓し、忠殻のときには男爵。【出典】 

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