熊本県内の「菊池」の名字の詳細
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■ 菊池(きくち): 熊本県の菊池家 

# 熊本県の菊池家: 藤原北家で、藤原道長の甥の藤原隆家の子孫という。平安時代末期から肥後国に勢力を張ったが、戦国時代大友氏に滅ぼされた。【出典

・ 肥後国菊池郡の武士。藤原北家の出。長らく関白道隆の子で太宰権帥藤原隆家の子孫と言われていたが、現在は菊池氏の祖の則隆は藤原隆家の郎党で、藤原姓仮冒したものとされる。その出自は菊池郡郡司の末裔とも紀姓とも言われるがはっきりしない。また、則隆の父の政則は対馬守藤原蔵規と同一人物であり、藤原氏に連なる一族であるという説もある。
いずれにしても、則隆以降の菊池氏在庁官人から離れて武士化し、菊池城を本拠とした。源平合戦の際には、隆直は平家方に属していたが、壇ノ浦合戦では源氏方に転じ、鎌倉時代には幕府の御家人となった。また、承久の乱では上皇方に付いたこともあり、以後は菊池郡付近の領主であるにとどまった。1333年、武時は後醍醐天皇の挙兵に呼応し、鎮西探題を攻めて戦死した。南北朝時代には一貫して南朝に属し、その中心勢力となり、武光は九州全土に勢力をふるった。しかし北朝方の今川了俊が九州に下向したことで勢力が衰えた。南北朝合一後、兼朝の時に肥後の守護を回復し、以後代々世襲してやがて戦国大名となった。1532年に武包(たけかね)の死後急速に衰え、大友氏に敗れて嫡流は断絶した。一族の重次が日向国米良(宮崎県)に逃れて米良氏となり、江戸時代には交代寄合となった。明治維新菊池氏に復姓した。【出典

# 熊本県の菊池氏: 肥後国戦国大名。肥後国菊池郡(熊本県)をルーツとする。藤原北家の出で、菊池郡の郡司の末裔とも言われるが未詳。南北朝時代には南朝に属して、菊池武光は九州全土に勢力をもったが、後に衰退。南北朝が統一後に肥後国の守護の地位を回復したが、後に大友氏に敗れて嫡流は断絶した。一族の重次が日向国米良(宮崎県)に逃れて米良氏となり江戸時代には旗本交代寄合。【出典

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