兵庫県内の「赤松」の名字の詳細
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■ 県内152位: 赤松(あかまつ): 兵庫県の赤松家

# 関西地方から、山陽・北四国に広がる名字で、播磨国赤穂郡赤松(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)をルーツとする。【出典

# 兵庫県の赤松家: 兵庫県の赤松氏は鎌倉時代初期に播磨国佐用郡佐用荘の地頭となった宇野則景の子の家範が佐用荘赤松にちなんで称した。

・ 播磨国赤穂郡赤松(兵庫県上郡町)を本拠とし、村上源氏の出と言われる。赤松則村が北朝に属し、守護大名となったが、戦国時代に衰退した。【出典

・ 播磨国の戦国大名。播磨国赤穂郡赤松(兵庫県上郡町赤松)をルーツとする。各種の系図では村上源氏の子孫となっているが不詳。1193年頃、則景が佐用荘の地頭となって、以後西播磨に勢力を持った。鎌倉時代末期には悪党として活動していたとみられる。1333年に則付(円心)は後醍醐天皇令旨に呼応して山陽道からいち早く応じ、苔縄城で挙兵。足利尊氏と共に六波羅を攻略して後醍醐天皇を迎えた。尊氏が建武政権を離脱すると、白旗城(上郡町)を築城して尊氏に従い、室町幕府の創立後、則付は播磨、嫡子の範資は摂津、次子貞範は美作の守護となった。以後、代々北朝方として活躍、義則は室町幕府の四職の一つとなって播磨・摂津・備前・美作の四国の守護を兼ねた。一族および土豪層を家臣団として形成し、その子満祐は六代将軍足利義教と対立、1441年に将軍義教を殺したため、山名氏細川氏に討たれて没落した。1458年になって政則が再興、1469年に置塩城(姫路市夢前町)を築城。応仁の乱では東軍に属して播磨・備前・美作の守護を回復した。政則の死後、七条家(範資の末裔)出身の娘婿の義村が継いだが、1506年から13年にかけては、政則の妻だった洞松院尼(管領細川勝元の娘)が義村にかわって分国支配した。やがて、守護代浦上氏が台頭し、圧迫されるようになり、1520年には家督を子の晴政に譲ったが、1521年に義村が浦上村宗に殺され、1559年には義祐が浦上宗景によって追放された。【出典】 

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