大阪府内の「畠山」の名字の詳細 | |
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■ 畠山(はたけやま): 大阪府の畠山家
# 大阪府の畠山家: 足利将軍家一門。平姓の畠山氏の滅亡後、重忠の妻(北条時政の女)は足利義兼の子の義純に嫁ぎ、以後義純は畠山氏を称して、その旧領を領し、子の泰国は関東御家人として活躍した。南北朝時代には足利氏に属し、室町時代には河内畠山氏と能登畠山氏に分裂した。河内畠山氏は基国が1391年に山名氏清を討ち、1398年には幕府の管領となった。満家・持国は河内・紀伊・越中の守護を世襲したが、持国の養子となった政長と晩年の実子の義就(義夏)の家督争いが起きて、義就系の総州家と、政長系の尾州家の二つに分裂、この争いは応仁の乱の一因ともなった。総州家の義就は家督争いに敗れた後、金剛山を本拠地に南河内を拠点とした。子の義豊は河内国の誉田城に拠って尾州家と戦い、1499年に戦死、その孫の義堯は三好氏と結んだものの、1532年に一向一揆に攻められて自刃し、滅亡した。一方、家督争いに勝った尾州家は河内・紀伊を支配した。しかし、政長は細川政元と争って戦死、子の尚順は河内国の高屋城(大阪府羽曳野市)に拠って勢力を回復したものの、やがて遊佐氏、安見氏らの家臣の台頭で没落した。戦国時代、高政は織田信長に仕えたが、弟の昭高は遊佐氏の謀反によって自刃した。1624年に徳川家康に召し出されて、摂津国八部郡で300石を与えられ、子の基広は1679年に奥高家と改称した。【出典】
# 大阪府の畠山家: 河内国の戦国大名で、平安時代末期に秩父重綱の孫の重能が武蔵国男衾郡畠山荘(埼玉県深谷市周辺)の開発領主となり畠山氏を称した。鎌倉幕府では有力御家人となったが、畠山重保が北条義時によって謀反の疑いをかけられ滅亡した。平姓の畠山氏が滅亡後、畠山重忠の妻が足利義兼の子の義純に嫁ぎ、その後義純は畠山氏を称した。室町時代には河内畠山氏と能登畠山氏に分かれた。 河内畠山氏は、応永5年(1398年)に鎌倉幕府の管領となった。【出典】
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