静岡県内の「中村」の名字の詳細
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■ 県内11位: 中村(なかむら): 静岡県の中村家

# 静岡県の中村家: 遠江国敷知郡浜松荘宇布見郷(静岡県浜松市)の豪農で源氏の出。鎌倉時代に大和国広瀬郡中村郷(奈良県)に住んで中村氏を称した。室町時代に遠江国に転じて今川氏に仕えた。今川家が没落した後には徳川家に仕える。江戸時代には庄屋を務める。【出典

・ 遠江国敷知郡宇布見郷(静岡県浜松市西区雄踏町)の豪農。源氏の出で、鎌倉時代に大和国広瀬郡中村郷(奈良県)に住んで中村氏を称し、室町時代に遠江国に転じて今川氏に仕えた。今川氏が没落した後には徳川家康に仕え、結城秀康は中村邸で生まれたという。江戸時代には、代々庄屋を務め、尾張藩主や紀伊藩主などが浜松を通る際には必ずお目見えしたという。【出典

# 静岡県の中村家: 遠江国引佐郡の姫街道の気賀宿(静岡県浜松市北区細江町)の本陣。【出典

■ 10位: 中村(なかむら)

# 静岡県内では、西部に多く見られ、本川根町、雄踏町では1位。【出典

# 豊臣秀吉の出身地の尾張国中村郷発祥は、宇多源氏佐々木氏族。【出典

# 甲斐国中村荘発祥は清和源氏武田氏流と毛野氏流がある。【出典

# 相模国中村荘発祥は桓武平氏村岡氏流と言われる。【出典

# 遠江国小笠郡中村(小笠町)発祥の中村氏は紀氏流で、中納言紀長谷雄の九代孫の大内記紀遠定が中村を領して、その子の忠遠が中村紀三郎を称したのが祖。【出典

# 浜名郡宇布見村(雄踏町)の中村氏は現代まで三十数代続き、初代の兵部之助正範は源頼朝の弟の範頼の七男で大和国中村城主、子孫の正澄は南朝方の武将として各地を転戦した。【出典

# 文明年間、新左衛門尉正実が今川範忠に招かれて遠江国大橋郷に来住し、後に宇布見等の敷智郡五ヵ荘を領したので宇布見に移住した。正実の四代孫の源左衛門尉正吉は今川義元に仕え、のちに徳川家康に仕えて運糧監となり、この家で家康の長子の秀康が誕生し、四歳まで育ったという。正吉の二男の善右衛門正辰はその縁で越前国の結城秀康に仕えた。正吉の子孫は、代々代官をつとめ、幕末まで浜名湖の航海権を支配した。【出典

# 榛原郡下川根村(川根村)の中村氏は平治の乱に敗れた源義朝を謀殺した桓武平氏の長田忠致の後裔と伝えられ、忠致は義朝の子の頼朝の追及を逃れて遠江の山間に隠れ住み、子孫が長田姓を捨て中村に改称したという。【出典

# 駿河国の浅間神社(静岡市)の社家の中村氏の祖は、信濃国中村郷発祥の中村連の後裔といい、延喜元年(901年)に中村勝宗が大宮(富士宮市)より浅間神社を勧請した時に、神主となって、中村姓のほかに新宮氏を称した。天正年間に、浅間神社の神職の中村左近将監昌貞、子の吉勝は母方の姓の三枝氏を称して徳川家康に仕えた。【出典

# 伊豆の中村氏の先祖は、伊勢国の国人で、中村民部国房の時に、相模国梅沢、新井の二つの城にいたが、三浦導寸に敗れ賀茂郡吉佐美(下田市)に逃れ、のちに大賀茂(下田市)に曹洞院を建立した。その子の式部氏重は豊臣秀頼に属して大坂の陣で討ち死にし、子の清右衛門氏親は見高(河津町)に隠れ、長男の三郎右衛門は帰農し、二男の忠兵衛道味は下田に移住した。【出典

# 橘姓の中村式部少輔一氏は豊臣秀吉に仕え、1580年に駿府城主となって、弟の彦右衛門一栄は沼津城主。一氏の弟の右近の孫の勘三郎は江戸歌舞伎の中村家の初代。【出典】 

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