栃木県内の「佐野」の名字の詳細 | |
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■ 佐野(さの): 栃木県の佐野家
# 栃木県の佐野家: 下野国安蘇郡佐野(栃木県佐野市)をルーツとする。藤原北家秀郷流で足利有綱の子の基綱が佐野氏を称した。
# 栃木県の佐野氏: 下野国の戦国大名。藤原北家秀郷流で足利有綱の子の基綱が下野国安蘇郡佐野(栃木県佐野市)に住んで佐野氏を称した。佐野氏は豊臣秀吉の小田原攻めで一旦滅亡したが、一族が跡継ぎを認められ佐野で3万9千石を領した。関ヶ原の合戦では佐野信吉が東軍に属し立藩したが、1614年に実兄の宇和島藩主の富田信高に連座して改易。信吉の子の久綱は後に旗本。【出典】
# 下野国の戦国大名。藤原北家秀郷流で、足利有綱の子の基綱が下野国安蘇郡佐野(栃木県佐野市)に住んで佐野氏を称し、鎌倉幕府の御家人になった。享徳の乱の際に盛綱が台頭し、唐沢山城(佐野市)に拠って戦国時代の初期には安蘇郡をほぼ支配し、古河公方に従った。永禄3年(1560年)の上杉謙信の関東侵攻以降は謙信に従ったが、北条・上杉両氏の間で去就が一定しなかった。天正12年(1584年)の大晦日、長尾顕長に領内の彦間城を落とされた宗綱が、翌日の元旦に一騎で彦間城に駆けつけた際に城中から射られた矢にあたって26歳で死去、そこで、家臣が北条氏康の五男の氏忠を迎えて宗綱の娘と結婚させ、佐野家の名跡を継がせた。しかし、豊臣秀吉の小田原攻めで氏忠は実家の北条氏とともに滅び、名家の佐野氏は一旦滅亡した。宗綱の叔父の房綱は僧侶になっていたが、氏忠が佐野家を継いだことを良しとせず、豊臣秀吉と通じて旧家臣とともに佐野城を攻めて奪い、秀吉から佐野氏の跡継ぎとして認められ、佐野で3万9000石を領した。【出典】
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