茨城県内の「鹿島」の名字の詳細
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■ 鹿島(かしま): 茨城県の鹿島家 

# 茨城県の鹿島家: 常陸国鹿島郡鹿島郷(茨城県鹿嶋市)をルーツとし、桓武平氏大掾氏流。【出典】 

・ 鹿島神宮の大宮司。中臣姓。天照大神の命で地上に降り立ち、国土を平定した武甕槌神(たかみかづちのかみ)は、神武天皇の東征の際に神剣フツノミタマノツルギを献上してその東征を助けた。神武天皇は即位の年に鹿島に使いを送って、武甕槌神を祀ったのが鹿島神宮の起源という。大宮司は大中臣姓の一族から選ばれていたが、やがて鹿島家の世襲となった。また大禰宜家も鹿島家が務める。【出典】 

# 常陸国大掾氏の一族。吉田清幹の三男の成幹が常陸国鹿島郡鹿島郷(茨城県鹿嶋市)に住んで鹿島三郎を称した。多くの庶流を出し、嫡流は成幹の三男の政幹が継いだ。政幹は源頼朝に仕え鹿島神宮の総追補使となり、以後は世襲した。大永4年(1524年)に義幹のときに家臣団と対立、大掾氏江戸氏と結んだ家臣団に敗れて義幹は討ち死。大掾忠幹の子の通幹が鹿島氏を継いだが、通幹も家臣団と対立して府中に戻り、結局下総国東荘に逃れていた義幹の子の治時が家督を継いだ。しかし、その後も内訌があって次第に勢力が衰えた。天正18年(1590年)の豊臣秀吉小田原攻めでは所領を安堵されたが、翌年に清秀らが佐竹義宣に山方城で謀殺され、その妻は残兵とともに鹿島城で抵抗したが討ち死にして滅亡した。のちに治時の女婿にあたる国分胤政の子が名跡を継いで、江戸時代には鹿島神宮の神官をつとめた。【出典

# 常陸国大掾氏の一族。常陸国鹿島郡鹿島郷(茨城県鹿嶋市)発祥。吉田清幹の三男の成幹が鹿島郷に住んで鹿島氏を称した。多くの庶流を出し、庶流は成幹の三男の政幹が継いだ。政幹は源頼朝に仕えて1181年に鹿島神宮の総追補使となって、以後世襲した。南北朝時代に、幹重は佐竹氏に従って北朝に属した。上杉禅秀の乱では持氏方に属した。1524年に義幹のときに島崎利幹に敗れて下総国東荘に逃れたが、その子の治時は佐竹氏に従って鹿島城を回復した。その後は次第に衰え、1578年の内乱後に没落した。1590年の豊臣秀吉小田原攻めでは所領を安堵されたが、翌年に清秀らが佐竹義宣に謀殺されて滅亡した。【出典

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