中臣氏族
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■ 中臣(なかとみ)氏

■ 中臣藍(なかとみのあい)氏

・ 中臣を冠する複姓氏族。中臣は中臣氏との関係を示し、藍は摂津国嶋下郡安威(あい)郷(大阪府茨木市付近)の地名に因む。安威はもとは藍と表記された。同所に本貫を持つ氏族であろう。新撰姓氏録の摂津国神別には、中臣氏の祖神天児屋根十二世の孫、大江臣の後とされ、姓は連だった。藍(安威)の地は、中臣(藤原)鎌足が別業を営んだり、墓所を設けたという所伝があり、中臣氏との関係が深い所であった。この背景には中臣藍の存在があろう。推測すれば、中臣藍はもとは藍と称し、七世紀前後に中臣氏と関係をもって、中臣藍と称するようになったと思われる。氏神社は嶋下郡阿威神社(大阪府茨木市安威)。【出典

■ 中臣伊勢(なかとみのいせ)氏

・ 中臣を冠称した複姓氏族。中臣は中臣氏との関係、あるいは神祇職の従事を示す。伊勢は出身国名の伊勢国に因む。もとは伊勢直で、天平十九年(747年)に大津ら七人は中臣伊勢連を賜姓。天平宝字八年(764年)に老人は、朝臣の姓を得た。天平神護二年(766年)に、大津は中臣伊勢連から伊勢朝臣を賜姓され、以後老人らも伊勢朝臣と記載されている。氏人には先の大津・老人がおり、大津は天平勝宝元年(749年)に、正六位上から外従五位下に昇叙。老人は藤原仲麻呂の乱の殊功により、従六位下から従四位下に昇叙され、朝臣を賜姓された。神護景雲二年(768年)に伊勢国造となったほか、造西隆寺長官・外衛中将・遠江守などの内外官を歴任し、延暦八年(789年)に卒去した。【出典

■ 中臣表(なかとみのうえ)氏

・ 中臣を冠称する複姓氏族。中臣は中臣氏との関係を示す。表は和泉国内の地名であろう。新撰姓氏録の和泉国神別には中臣氏の祖神の天児屋根命の後とされ、姓は連であった。【出典

■ 中臣殖栗(なかとみのえぐり)氏

・ 中臣を冠称する複姓氏族。中臣は中臣氏との関係、あるいは神祇職の従事を示す。殖栗は山城国久世郡殖栗郷(京都府宇治市)の地名に因む。同所に本貫を持つ氏族であろう。氏人には、天平十一年(739年)に無位から従五位上に叙位された豊日、天平宝字八年(764年)に信濃国史生で正八位上の楫取がいる。いずれも姓は連。また神護景雲元年(767年)に春日社の神官となった時風・秀行がいる。新撰姓氏録には中臣殖栗はみえないが、大中臣と同祖とする殖栗連がいる。【出典

■ 中臣大田(なかとみのおおた)氏: 

・ 中臣を冠称する複姓氏族。中臣は中臣氏との関係を示し、大田は摂津国嶋下郡の地名に因む。延喜式には同郡(大阪府茨木市大田)に太田神社があるので、ここに本貫を持つ氏族であろう。新撰姓氏録の摂津国神別には、中臣氏の祖神の天児屋根命十三世の孫である、御身(みみ)宿禰の後裔とされ、姓は連。【出典

■ 中臣大家(なかとみのおおやけ)氏

・ 中臣を冠称する複姓氏族。中臣は中臣氏との関係を示し、大家は地名に因む。この地名は、大和国添上郡大宅郷(奈良県)と河内国河内郡大宅郷(大阪府東大阪市)の二つの説がある。前者は匝布屯倉、後者は大戸(おおべ)屯倉の所在地とされ、中臣大家は河内国が道系氏族の分布の多いことから後者が本貫であろう。新撰姓氏録の左京神別には、大中臣と同祖とされ、姓は連であった。【出典

■ 中臣方岳(なかとみのかたおか)氏

・ 中臣を冠称する複姓氏族。中臣は中臣氏との関係を示し、方岳は近江国伊香郡片岡郷(滋賀県伊香郡余呉町片岡)の地名に因む。同所に本貫を持つ氏族だろう。新撰姓氏録の左京神別には、大中臣氏と同祖とされ、姓は連であった。氏人には、藤原仲麻呂の追討の功績で、天平宝字八年(764年)に正六位上から外従五位下に叙位された中臣片岡連五百千麻呂がいる。【出典

■ 中臣葛野(なかとみのかどの)氏

・ 中臣を冠称する複姓氏族。中臣は中臣氏との関係、または神祇職への従事を示す。葛野は山城国葛野郡葛野郷(京都府京都市右京区)の地名に因む。同所に本貫を持つ氏族であろう。天平二十年(748年)に正六位下中臣部干稲麻呂は、中臣葛野連を賜姓されて成立した。もとは中臣部で、姓は連であった。ただし、新撰姓氏録の山城国神別では中臣氏系ではなく、饒速日命の九世孫の、伊久比(いくい)足尼の後と物部氏系とされている。【出典

■ 中臣熊凝(なかとみのくまこり)氏

・ 中臣を冠称する複姓氏族。中臣は中臣氏との関係、または神祇職への従事を示す。熊凝は地名に因む。熊凝は、聖徳太子の熊凝道場(額田寺)の所在地で、「太子伝玉林抄」によると、大和国平群郡額田郷(奈良県生駒市額田町)である。同所に本貫を持つ氏族であろう。新撰姓氏録の右京神別には中臣氏系ではなく物部氏系とあり、姓は朝臣。すでに養老三年(719年)に、従六位上中臣熊凝連古麻呂ら七人に、朝臣の姓が賜与されている。【出典

■ 中臣栗原(なかとみのくりはら)氏

・ 中臣を冠称する複姓氏族。中臣は中臣氏との関係を示し、栗原は美濃国不破郡栗原郷(岐阜県不破郡垂井町栗原)の地名に因む。旧氏姓は栗原勝。天応元年(781年)に右京人の正六位上子公は、先祖の伊賀津臣は中臣氏の遠祖の天御中主命の二十世孫の意美佐夜麻の子で、神功皇后の世に百済に遣わされ、そのときに同地で本大臣・小大臣を設けたという伝承がある。二人の子はその後、渡来して不破郡栗原に住んで、栗原勝を氏姓としたが、以上の因縁により子公ら男女十八人に中臣栗原連の改氏姓を申請して許された。新撰姓氏録では、天児屋根十一世孫、雷大臣の後裔となっているが、未定雑姓に編入されている。これは、この出自が当時においては疑問とされたためで、もとの姓は勝で、元来は渡来系の氏族であった。【出典

■ 中臣酒人(なかとみのさかひと)氏

・ 中臣を冠称する複姓氏族。中臣は中臣氏との関係を示し、酒人は造酒、とくに神酒の醸造に従事した職掌にちなむか、または摂津国東生郡酒人郷の地名に因むか。新撰姓氏録の左京神別には、大中臣氏と同祖、天児屋根命十世の孫、臣狭山命の後裔とされている。姓は天武天皇十三年(684年)に、連から宿禰を賜与されている。【出典

・ 酒人郷(さかひとのごう): 旧摂津国(大阪府)。奈良期〜平安期に見える郷名。「和名抄」摂津国東成(ひがしなり)郡五郷の1つ。神護景雲3年9月11日の香山薬師寺鎮三綱牒によれば、「彼部人郷御殿村」の荘地を公地として勅旨荘に、「価銭?伯貫文」で売却したとあり、この荘地はあわせて「参町弐段肆拾?歩」であり,その四至は「東限御殿西道 南限路西限谷 北限堀江」という。なお「古事記応神天皇条に、同天皇の子孫である「意富富杼」は「酒人君等の祖」とある。のちの石山合戦両軍配陣図に「酒戸」という地名が見えるが,これは大坂城の北側付近にあたることから、当郷は現在の都島区・城東区あたりと考えられる。一方「地名辞書」によれば、当郷は大坂城付近の高地であり、玉造を当郷内の地と推定しているため、東区の玉造および天王寺区の玉造地区付近一帯とも考えられるが、詳細は不明。【出典

・ 酒人郷: 旧近江国(滋賀県)。南北朝期から見える郷名。甲賀郡伊勢神宮柏木(かしわぎの)御厨5か郷の1。のちの大字酒人・植(うえ)・泉に相当。元徳3年「柏木御厨目録」に酒人にあった国中宮・酒人寺の除田が見える。南北朝末期から他領の入り組みや守護の半済が見られた。永和元年9月、金光院供米が安堵され、応永6年11月酒人郷半済を料所として山中橋六に預け置かれている。当地の用水は柏木郷内河原から通じ、これを文安5年6月、美濃部(みのべ)郷から三野辺(美濃部)氏が新井を立てて妨げたのを祭主と保司山中高俊が訴えているので、祭主保の支配が続いていたことがわかる。【出典

■ 中臣酒屋(なかとみのさかや)氏

・ 中臣を冠称する複姓氏族。中臣は中臣氏との関係を示す。酒屋は造酒司の酒殿神社、または河内国丹比郡酒屋神社(大阪府松原市)を奉斎したことに因むか、または酒屋神社の酒屋を地名と解して、この地名に因むかの二つの説がある。新撰姓氏録の河内国神別には、中臣氏の祖神の津速魂命の十九世の孫の真人連公の後裔とされている。姓は連。氏人はさだかではない。【出典

■ 中臣志斐(なかとみのしひ)氏

・ 中臣を冠称する複姓氏族。中臣は中臣氏との関係を示す。志斐は「強(し)い」の意味。すなわち、阿倍志斐連の名代は楊(やなぎ)の花を辛夷(こぶし)の花と強(し)いたことにより、該氏を賜与された。万葉集にも「いなといへど強(し)ふる志斐のが強(し)ひ語り」などの類例がある。この「強い語り」を、語部ないし宮廷寿詞の奏言者とみるのが一般的である。新撰姓氏録の左京神別では、中臣氏の祖の天児屋根命の十一世、雷大臣の男弟子(おとこ)の後裔とされ、中臣氏と同系の氏族である。また意富乃古(おおのこ)連が雄略天皇時代に、「力強」の東夷を一朝に滅亡させた功により、暴代(あらて)連に名を改めたとする。これは意富乃古連が、東夷よりもさらに「力強」であったというモチーフであり、ここでは志斐を文字通り、「強い(力強い)」と解釈している。しかし、志斐はやはり、「強ひ語り」に由来するとみるのがよい。一族には、まず猪甘(養)がいる。猪甘は天平宝字五年(761年)ころ、陰陽允であった。猪甘は志斐猪養とも表記され、天平宝字二年(758年)は美濃大目であった。一族にはこれ以降、陰陽・天文道の関係者を輩出し、大同三年(808年)に陰陽・天文博士であった国守をはじめ、春継・安善・広守と天文博士が続いた。【出典

■ 中臣習宜(なかとみのすげ)

・ 中臣を冠称する複姓氏族。中臣は中臣氏との関係、または神祇職への従事を示す。習宜は平城京西北の地で、この地名に因む。姓は当初は連で、養老三年(719年)に従八位上笠麻呂ら四人に朝臣の姓が賜与される。新撰姓氏録の右京神別には神饒速日命の孫、「うましにぎた」命の後裔とされ、物部氏の系譜を持つ。氏人には先の笠麻呂のほかに、道鏡の皇位託宜事件に関与した阿曾麻呂がいる。阿曾麻呂は神護景雲元年(768年)に従五位豊前介となり、その後太宰主神のときに偽の託宣を奏し、宝亀元年に道鏡の失脚とともに但馬守に左遷された。その後、宝亀三年(772年)に大隅守となった。【出典

■ 中臣高良比(なかとみのたからひ)氏

・ 中臣を冠称する複姓氏族。中臣は中臣氏との関係、または神祇職への従事を示す。高良比の由来は不詳新撰姓氏録の河内国神別には、中臣氏の祖神津速魂命十三世の孫、臣狭山命の後裔とされ、姓は連で、河内国出身であった。氏人には天平五年に、越前国の大目で従七位上勲十二等であった新羅がいる。また神亀三年(726年)に伊勢神宮の宮司となった高良比連千上も一族で、おそらく千上が神祇職に就任以降、中臣高良比と改姓された。【出典

■ 中臣東(なかとみのひがし)氏

・ 中臣を冠称する複姓氏族。中臣は中臣氏との関係を示し、東は摂津国百済郡東部郷(大阪府大阪市生野区生野)に因む。東部郷は東郷とも書いた。ここに本貫を持つ氏族であろう。新撰姓氏録の摂津国神別には、中臣氏の祖神の天児屋根命九世孫、鯛身(たいみ)命の後裔とされ、姓は連であった。【出典

■ 中臣宮処(なかとみのみやところ)氏

・ 中臣を冠称する複姓氏族。中臣は中臣氏との関係を示し、宮処は宮地とも書き地名に因む。「住吉大社司解」に和泉国内に宮処の地名があり、珍努宮の所在地(大阪府泉佐野市)と解されている。また新撰姓氏録には、和泉国神別に宮処朝臣がおり、中臣宮処は和泉国出身で、宮処は地名に因むと考えられる。なお、宮処朝臣とは、同族の可能性が高い。姓は連で、新撰姓氏録の左京神別には、大中臣氏と同祖とされている。【出典

姓:真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連。直・臣・使主・君・公などの詳細】 

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