佐賀県の戦国史
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■ 佐賀県の戦国史

# 室町時代の佐賀県域は、守護少弐氏と、それを支える小城の千葉氏や、松浦地方の松浦党が勢力を持っていた。少弐氏は、元来は太宰府を本拠としていたが、永享5年(1433年)に大内持世に敗れて太宰府を追われ、文明15年(1483年)に政資が肥前国で挙兵し、その末子の資元は拠点を肥前国に移して龍造寺氏の支援の基に少弐氏を再興した。【出典

# 千葉氏元寇の際に晴気荘に下向した西遷御家人で、守護少弐氏を支える立場にあったが、少弐氏の没落に従ってその勢力を伸ばし、室町時代後期には事実上小城・佐賀・杵島の三郡を支配した。応仁の乱後には、千葉氏は千葉城に拠った小城千葉氏(東千葉家)と晴気城に拠った晴気千葉氏(西千葉家)の二流に分かれた。【出典

# 松浦党は、嵯峨源氏を中心とした海の同族集団で、上松浦党、下松浦党、宇久党に分かれた。佐賀県域は上松浦党の諸氏が勢力を持ったが、このなかでは波多氏と鶴田氏の勢力が大きかった。【出典

# この時代に急速に勢力を伸ばしたのが筑紫氏だが、筑紫氏の詳細は不詳少弐氏の一族とみられ、本来は筑前国の武士だったが、戦国時代初期の惟門のときに勝尾城(佐賀県鳥栖市)に拠って自立して戦国大名になった。以後、大内氏少弐氏毛利氏大友氏など、めまぐるしく与する相手を変えて、子の広門は肥前国城津・養父・三根の三郡を支配した。【出典

# 永禄2年(1559年)に、少弐冬尚が龍造寺隆信に敗れて滅亡した。龍造寺氏少弐氏の歴代の家臣で、庶流の水ヶ江家から龍造寺氏を継いだ隆信は、譜代の重臣の鍋島直茂を用いて筑後国肥後国にも進出し、大友氏島津氏とともに九州を三分する大大名になった。しかし、天文12年(1584年)に隆信は島津家久に島原で敗れて自刃した。子の政家は病弱のため鍋島直茂に実権を奪われて、豊臣秀吉の九州仕置きでも鍋島直茂による統治が容認された。【出典

戦国時代とは

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