「筑紫」の名字の由来
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■ 筑紫(ちくし)

【2024/04/10:改編】

# 肥前国戦国大名。名字の由来の地は、筑前国御笠郡筑紫村(福岡県筑紫野市)で、藤原北家の少弐氏の一族で少弐貞頼の子の教門を祖とする。戦国時代の初期の、惟門のときに勝尾城(鳥栖市)に拠って戦国大名になった。子の広門は肥前国城津郡・養父郡・三根郡を領し、大友氏に属した。天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州攻めに遅参したため、所領を没収され、改めて筑後国上妻郡で1万8000石を賜って山下城に住んだ。関ヶ原の合戦では西軍に属して滅亡した。【出典

# 筑前国の戦国大名。筑前国御笠郡筑紫村(福岡県筑紫野市)発祥。藤原北家の少弐氏の一族で、「筑紫系図」では少弐貞頼の子の教門を祖とする。史料上の初見は応永7年(1400年)の筑紫次郎が少弐貞頼から筑紫国規矩郡曽禰村(福岡県北九州市小倉北区)を与えられた書状。戦国時代初期、惟門のときに自立して戦国大名になり、子の広門は肥前国広津・養父・三根の三郡を領した。天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州攻めに遅参したため所領を没収され、改めて筑後国上妻郡で1万8000石を賜り、山下城に拠った。関ヶ原の合戦では西軍に属して伏見城を攻め、戦後には所領を没収された。跡を継いだ弟の広門は大坂の陣に参陣して許され、寛永4年(1627年)に豊後国速見郷で3000石を賜った。のちに知行地を伊豆国・上総国に移された。寛政譜では「つくし」だが「ちくし」ともいう。【出典】  

# 古代豪族の筑紫氏

# 「紫」のつく名字

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