静岡県内の「太田・大田」の名字の詳細
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■ 太田 ・ 大田(おおた): 静岡県の太田家

# 太田姓は静岡県内では22位。磐田市、天竜市(浜松市天竜区)、浜北市(浜松市浜北区)では2〜6位。【出典

# 天平年間に周智郡に太田君がいた。【出典

# 清和源氏流は源三位頼政の子の伊豆守仲綱を祖とし、「七重八重花は咲けども山吹の、実の一つだになきぞ悲しき」の歌の話で知られる太田道灌資長は丹波国太田郷を発祥とする清和源氏流。子孫の新六郎重正は徳川家康に仕え、その子の摂津守資宗、資次二代は浜松城主となり、孫の資直は田中城主、資直の孫の資俊は1746年に掛川城主となり、以後明治時代まで掛川藩主として続いた。【出典

# 日坂(掛川市)の脇本陣の太田氏の祖は関ヶ原の戦いで深手を負って日坂に永住したという。【出典

# 駿河の太田氏は藤原南家工藤氏族の入江家清が太田太夫を号し、また奥州藤原一族の藤原師衛は太田氏を称し、1189年に駿河国有度郡三沢浦(清水市・現静岡市)に配流され、その子の兼衛は駿河の久能勝重の娘を妻とし、子の太田主殿頭宗忠、宗種父子は駿河に住んで代々御穂神社の神官となった。【出典

# 静岡県の太田家: 遠江国掛川藩主(5万石)。清和源氏頼光流で、太田道灌末裔。太田道灌は主君の定正に暗殺されたが、その後太田氏は岩槻太田氏と江戸太田氏に分かれた。掛川藩主は江戸太田氏の子孫。北条氏の重臣となり、北条家が滅んだのちは徳川家に仕えた。明治維新、徳川家が静岡に移った際には、上総芝山に転じた。【出典

・ 掛川藩主戦国大名の武蔵太田氏の子孫。1590年の徳川家康の関東入国の際に重正が召し出されたのが祖。その妹は家康の側室(英勝院)となった。重正の子の資宗は三代将軍家光に近侍して累進、1635年に1万5600石を与えられて大名となり、下野国の山川藩を立てた。1638年に三河国西尾3万5000石、1644年に浜松3万5000石へ。以後、1684年に駿河田中藩5万石、1705年に陸奥棚倉5万石、1728年に上野館林5万石を経て、1746年に遠江掛川5万石に転じた。資愛と資始は老中を務めた。1869年に徳川家静岡藩への移封に伴い、資美は上総芝山(千葉県山武郡芝山町)5万3000石に転じ、明治時代には子爵。【出典】 

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