茨城県内の「水谷」の名字の詳細 | |
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■ 水谷(みずたに、みずのや): 茨城県の水谷家
# 茨城県の水谷家: 常陸国下館の豪族で結城氏に属した。水谷勝俊は1639年に備中成羽5万石、後に備中松山に転じたが1693年に跡継ぎがおらずに断絶。
# 水谷(みずのや): 下総国の戦国大名。藤原北家秀郷流。陸奥国磐城郡水谷(福島県)に住んで水谷氏を称した。氏俊のときに下野国に転じて結城基光のもとで下野国の守護代になり、嘉吉元年(1441年)の結城合戦では時氏が討ち死に。子の勝氏は結城氏から下館城を賜って下館城に拠り、以後は「水谷」と「結城」の両方を名乗った。以後、代々結城氏の重臣として活躍、天文14年(1545年)に正村は下館城を弟の勝俊に譲り、自らは久下田城(茨城県筑西市)を築いて拠った。天正4年(1576年)には織田信長と結び、本能寺の変の後は徳川家康に従った。豊臣秀吉の小田原攻め以降は結城氏から独立した大名になって下館を領した。【出典】
# 水谷(みずのや): 下総国の戦国大名。藤原北家秀郷流。陸奥国磐城郡水谷(福島県)に住んで水谷氏を称したという。観応の優乱の際に貞有は足利直義に従ったため、足利尊氏に所領を奪われた。氏俊のときに下野国に転じて結城基光のもとで下野国の守護代になり、1441年の結城合戦では時氏が討ち死した。子の勝氏は結城氏から下館城を賜って下館城に拠り、以後は「水谷」と「結城」の両方を称した。以後は、代々結城氏の重臣として活躍。1545年に正村は下館城を弟の勝俊に譲り、自らは久下田城(茨城県筑西市)を築いて拠った。1576年には織田信長と結び、本能寺の変ののちは徳川家康に従った。豊臣秀吉の小田原攻め以降は、結城氏から独立した大名として下館を領した。1596年に正村の跡を継いだ勝俊は、関ヶ原の合戦では東軍に属して本領を安堵された。1606年に勝隆が父の遺領をついで3万2000石を領して、1639年に備中成羽5万石を経て、1642年に備中松山5万石に転じた。1693年に勝晴が嗣子のないまま死去して断絶、のちに旗本の布賀水谷家として再興した。【出典】
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