宮城県内の「大崎」の名字の詳細
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■ 大崎(おおさき): 宮城県の大崎家 

# 宮城県の大崎家: 清和源氏足利氏の一族。文和3年(1354年)に斯波家兼が奥州探題として陸奥国下向し、その子孫は大崎氏を称した。戦国時代には伊達家に従った。【出典

・ 陸奥国の戦国大名清和源氏の出。名字の地は下総国香取郡大崎荘(千葉県香取市)だという。1354年に若狭の守護として新田義貞討伐に功を上げた斯波家兼が奥州管領として派遣され、陸奥国多賀国府に入ったのが祖。1356年に継いだ二代目の直持は吉良氏畠山氏などの先任の管領に代わって事実上奥州を支配した。三代詮持(あきもち・詮時)の1391年に幕府は奥州を鎌倉公方の支配下に組み込んだために斯波氏は奥州管領の地位を失ったが、1400年には幕府に働きかけて新たに奥州探題に任命された。詮持は栗原・玉造・加美・志田・遠田・長岡・新田の河内七郡(のち長岡・新田両郡が栗原郡に吸収されて大崎五郡となる)を直轄の支配地とし、満詮の頃から大崎氏を称して領国支配を確立した。戦国時代には、伊達氏の圧迫を受けて、1523年に陸奥の守護となった伊達稙宗の子の義宣が家督を継いだが、義宣は大崎家中と合わずに出奔して殺されたため、義宣を大崎氏当主に数えるかは諸説ある。跡を継いだ義直の代には家臣の叛乱が相次ぎ、稙宗の力を借りて平定したことから、以後大崎氏は伊達氏の傘下に入った。1590年に豊臣秀吉小田原攻めの際に参陣せず所領を没収された。その後、義隆が上洛して領土回復を図ったが、国元では遺臣による大崎一揆が勃発し、家名再興は失敗した。以後、大崎氏の末裔ははっきりしない。【出典】 

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