愛知県内の「本多」の名字の詳細
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■ 本多(ほんだ): 愛知県の本多家

# 愛知県の本多家: 三河国岡崎藩主藤原北家で助秀が豊後国本多に住んで本多氏を称した。室町時代に三河国に移り松平家に仕えた。徳川四天王に数えられた嫡流の本多氏(忠勝)の他、伊那本多氏、西城本多氏がある。岡崎藩主は嫡流の出。【家紋:右離れ立ち葵紋明治維新後には子爵

・ 本多忠勝を祖とする岡崎藩本多家江戸時代に9回(16代)の転封があったという。

・ 岡崎藩主。本多家の嫡流。忠勝は徳川四天王の一人とされ、1590年の家康の関東入国の際には上総国大多喜城主10万石となった。関ヶ原の合戦後、1601年には伊勢桑名10万石へ。子の忠政は1617年に播磨姫路15万石へ加転。1639年には政勝が大和郡山15万石へ。1679年に忠国は陸奥福島15万石を経て、1682年に播磨姫路15万石へ転じた。1704年に忠孝は越後村上15万石へ転じたが、1709年に嗣子がいないままに死去。忠英の長男の忠良が継ぐことを認められたが、5万石に減知。以後、三河刈谷5万石、下総古河5万石、石見浜田5万石を経て、1769年に忠粛(ただとし)が三河岡崎に転じた。明治時代には子爵。【出典

# 愛知県の本多家: 三河国の西端藩主。伊那本多氏の系統で三河国宝飯郡伊那(愛知県豊川市伊那)に住んだ。 

・ 三河国西端藩(愛知県碧南市)藩主。本多康俊の二男の忠相は二代将軍秀忠に仕え、1616年に三河国碧南郡で1000石が与えられたのが祖。以後、1624年に500石、1628年に2000石、1630年に1500石、1633年に3000石を加増されて8000石となった。さらに子の忠将が1682年に1000石を加増されて9000石となった。1864年に忠寛が加増されて1万500石となり大名となり、三河西端藩を立藩した。明治時代には子爵。【出典】 

# 愛知県の本多氏: 三河国松平氏の重臣で藤原北家の出と言われる。藤原兼通の11代の助秀が豊後国本多に住んで本多氏を称した。助秀の子の助定が足利尊氏に仕え、尾張国横根・粟飯原を領し、後に三河国に移り住んだ。その後は松平氏に仕え、「嫡流」「伊奈本多氏」「西城本多氏」がある。【出典

# 伊奈本多氏: 三河国宝飯郡伊奈(愛知県豊川市伊奈)に住んだ。徳川家康の関東入国に際して、下総国匝瑳郡小篠郷(千葉県匝瑳市)で5千石を領す。江戸時代には三河国西尾2万石を経て元和3年(1617年)に近江国膳所3万石を領す。伊勢国神戸藩主三河国西端藩主越前国福井藩家老本多家は分家。【出典

# 西城本多氏: 三河国西城に住んだ。本多正信徳川家康に仕えて、その子の正純は元和5年(1619年)に下野国宇都宮15万5千石を領したが、後に断絶。宇都宮の吊り天井事件か?本多正重は元和2年(1616年)に下総国1万石を領し、後に駿河国田中藩主となる。加賀藩家老本田家は同族。【出典

# 土井本多氏: 西城本多氏の庶流。本多秀清が松平氏に仕え、1497年に三河国碧海郡土井郷(愛知県岡崎市)を領した。徳川家康の関東入国に際して、上野国白井城2万石を領し、江戸時代には三河国岡崎5万石から、信濃国飯山2万石へ。【家紋:本多立ち葵】【出典】 

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