足利尊氏
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■ 足利尊氏(あしかがたかうじ): 「足利」の名字の由来

# 代表家紋: 二つ引両紋

# 足利家(あしかがけ)

# 室町幕府の初代将軍。

# 清和源氏義家流。

# 足利尊氏の正室は北条一門の赤橋氏の出。【「系図」を知ると日本史の謎が解ける 八幡和郎 青春出版社】 

# 足利尊氏の母親の実家は関東管領上杉家。【「街道」で読み解く日本史の謎 安藤優一郎 PHP文庫】

# 鎌倉幕府を倒して、政権を京の室町においた足利尊氏は、嫡子の足利義詮(よしあきら)を関東の鎌倉において、東国の押さえにし、義詮を継嗣として上洛させ、後は次子の基氏(もとうじ)を鎌倉に残して、上杉氏に補佐を委ねた。これが鎌倉公方と関東管領の由来である。上杉氏は山内・犬懸(いぬかけ)・扇谷・宅間などの緒家に分かれて、また越後国に所領を賜って越後上杉氏が分かれた。【出典

# 足利尊氏(あしかがたかうじ)【出典

・ 1305−1358年。享年54歳(病死)。

・ 出身地: 丹波国

・ 家族: 弟:足利直義。子:足利基氏

・ 肩書き: 室町幕府の初代将軍。

・ 1333年に、全国で倒幕の兵が挙がるなか、隠岐(隠岐島)から後醍醐天皇が脱出。船上山(鳥取県)に名和長年とこもった天皇を討つべく、幕府軍を率いて鎌倉を出発した足利高氏(尊氏)であったが、このとき反幕の決意は固まっていたという。所領であった丹波国(京都府)で挙兵すると、諸国に軍勢催促状を送った。高氏の高の字は、元服したときに十四代執権の北条高時から賜ったものである。足利氏は旧来の有力御家人だったため、高氏の挙兵は全国に御家人の心理面に与えた影響が大きく、幕府の滅亡をはやめた。高氏は京の六波羅探題を滅ぼすと奉行所をおいて、全国から上洛する武将を傘下にいれた。京に入った後醍醐天皇は高氏に自分の諱(いみな)の尊治(たかはる)から「尊」の一字を授け、鎮守府将軍に命じた。しかし、尊氏は建武政権に加わらなかった。天皇が尊氏を敬遠したのか、尊氏に源氏の正統としての幕府再興の野心があったからかは不明。後醍醐天皇の子の護良親王は、征夷大将軍に任ぜられ建武政権に加わっていたが、尊氏を警戒して、密かに尊氏打倒の計画を立てた。しかし、尊氏に知れて、逆に護良親王は捕まって、鎌倉の尊氏の弟の足利義直のもとに幽閉された。1335年に北条時行を擁立した旧幕府による中先代の乱が発生した。尊氏は征討のために征夷大将軍の地位を天皇に求めたが認められなかった。尊氏は自主的に乱を鎮め、そのまま鎌倉に居残って、帰京をもとめる天皇を黙殺した。後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵として、新田義貞を尊氏討伐に差し向けた。尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下(静岡県)で返り討ちにすると京に向かった。すると、今度は楠木正成北畠顕家、新田義貞の連合軍に阻まれたために、尊氏は九州に赴いた。尊氏は西国に拠点をつくりながら態勢を整えると共に、持明院統の光厳上皇を後ろ盾にすることに成功した。尊氏は楠木正成軍を湊川(兵庫県)で破って、ついには京に入った。そして光明天皇を即位させて、後醍醐天皇を吉野(奈良県)に追った。尊氏は建武式目を定めて、武家政権の成立を宣言し、実質的に室町幕府が成立した。1338年には光明天皇から念願の征夷大将軍の地位を授かって、室町幕府の初代将軍になった。南朝を開いた後醍醐天皇が吉野で崩御すると、尊氏は慰霊のため天龍寺(京都府)を造営した。その後、尊氏は南北朝の紛争などの軍事面を高師直に、政務は副将軍の足利直義に任せていたが、ふたりは次第に対立した。これを観応の攪乱という。尊氏は和解をはかりながら、高師直に近づいて弟の直義を追撃した。しかし、幕府墓分裂をおそれ、ついには和解した。直義の死後は尊氏も病死した。

# 足利家の人々


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