宮崎県内の「甲斐」の名字の詳細 | |
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■ 県内2位: 甲斐(かい)
# 大分県と共通する名字で、県北部に多い。肥後国の菊池氏の一族で、この一族が甲斐国(山梨県)に住んで甲斐氏を称し、日向国に移り住んだ。【出典】
# 宮崎県の甲斐家: 肥後国の菊池家の分家。鎌倉時代の末期に菊池重村が甲斐国都留郡(山梨県都留市)に住んで、都留氏を称した。後に、日向の土持家に従い、高千穂に領地をもった。【出典】
# 肥後国・日向国の国衆。菊池氏の一族。菊池武村の子の重村が甲斐国都留郡(山梨県)に住んで甲斐氏を称したのが祖。重村は足利尊氏に従って九州に下向したが、菊池武重に敗れて日向国鞍岡(宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町)に土持氏を頼って逃れ、のちに高千穂に土着して同地の豪族になった。永正10年(1513年)に、親宣は阿蘇惟長に追われた惟豊を助けて阿蘇大宮司に復帰させ、自分も肥後国阿蘇郡に戻って阿蘇氏の重臣になった。子の親直は天文10年(1541年)に益城郡御船城主の御船房行を討って御船城主になった。以後は、大友氏と結んで、相良氏や島津氏と争った。子の親英のときに島津氏に敗れて落城した。【出典】
# 日向国・肥後国の国人。菊池氏の一族。菊池武村の子の重村が甲斐国都留郡(山梨県)に住んで甲斐氏を称した。重村は足利尊氏に従って九州に下向したが、菊池武重に敗れて日向国鞍岡(宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町)に土持氏を頼って逃れ、のちに高千穂に土着して同地の豪族になった。1513年に、親宣は阿蘇惟長に追われた惟豊を助けて阿蘇大宮司に復帰させ、自らも肥後国阿蘇郡(熊本県)に戻って、阿蘇氏の重臣になった。子の親直は1541年に益城郡御船城主の御船房行を討って御船城主になった。以後、大友氏と結び、相良氏や島津氏と争った。子の親英のときに島津氏に敗れて落城した。【出典】
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