「土持」の名字の由来 | |
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■ 土持(つちもち)
【2023/05/23:改編】
# 宇佐神宮の神官の田部(たべ)氏より出た古代大族だが、一説には日下部氏族ともいう。中世豪族で、のちに県(あがた)・財部(たからべ)・大塚・清水・都於郡(とのこおり)・瓜生野(うりうの)・飫肥(おび)の七氏を分出して、土持七党という。【出典】【家紋のデータ】
# 宮崎県の土持家: 日向国岩戸村(宮崎県西臼杵郡高千穂町岩戸)の旧家。反正天皇の孫の武城王の子孫と称す。戦国時代には三田井氏に仕え、大友家に滅ぼされ、末期に帰農したという。江戸時代には庄屋を務めた。
# 日向国の豪族。反正天皇の皇子の高部王子の子の武城王の子孫で、22代の土持冠者栄妙が日向国の押領司になって下向したというが不詳。宇佐八幡宮の神官として日向国に来たという。のちに日向国の在庁官人として大きな勢力を持っていた日下部氏と縁戚関係を持って、やがて日下部氏に代わって国富荘を中心に勢力を広げ、一族は日向国一円に広がった。財部・県・大塚・清水・都於郡・瓜生野・飫肥の七家があり、合わせて土持七頭を称したが、その系図ははっきりしない。やがて、伊東氏の勢力拡大によって次第に圧迫され、長禄元年(1457年)に財部土持氏は伊東氏に降って滅亡した。一方県土持氏は南北朝時代から井上城に拠っていたが、永享元年(1429年)に土持次郎全宣が宝坂城(延岡市)を築いた。さらに文安3年(1446年)に松尾城(延岡市松山町)を築いて、以後は代々戦国時代まで日向国北部を支配した。天正6年(1578年)に大友宗麟の島津攻めの際に落城、親成は豊後国で斬られ、子の高信も自刃して滅亡した。天正15年に豊臣秀吉の九州攻めの後に、親成の養子の久綱は薩摩国に逃れて、江戸時代には薩摩藩士になった。【出典】
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