熊本県の戦国史
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■ 熊本県の戦国史

# 室町時代に肥後国を支配していた守護菊池氏は、15世紀後半の重朝の頃をピークに衰退し始め、阿蘇氏相良氏が台頭してきた。阿蘇氏は惟村系が益城郡、惟武系が阿蘇郡を支配して対立していたが、宝徳元年(1449年)に惟村系の惟忠が、惟武系の惟歳を養子にすることで一旦は阿蘇一族を統一、さらに文明18年(1485年)に惟忠の子の惟憲が、惟歳・惟家父子を破って名実ともに阿蘇氏を統一した。【出典

# 一方、南部の相良氏も南北朝時代以降、多良木荘を本拠とする惣領の上相良氏と、人吉荘を本拠とする下相良氏に分裂していた。その後、下相良氏が惣領になり、文安5年(1448年)に、一族の水留氏から下相良家を相続した長続は葦北郡を制して積極的な領国拡張に乗り出すと、子の為続は名和氏を破って八代郡も支配した。【出典

# 天草では、志岐氏、天草氏、上津浦氏、大矢野氏、栖本氏のいわゆる天草五人衆が割拠、戦国時代には天草に進出してきた相良氏の支配下となった。【出典

# 天文元年(1532年)に、菊池武包の死後、菊池氏は急速に衰えて、以後、肥後国は他国からの侵攻にさらされた。天文3年に菊池義武が大友氏に敗れて菊池氏の嫡流は断絶し、豊後国の大友氏が肥後国の中北部を支配した。しかし、天正6年(1578年)に大友宗麟耳川合戦で大敗すると、肥前国龍造寺隆信が肥後国に侵攻してきた。続いて、薩摩国から島津氏が侵攻し、天正9年(1581年)に島津義久が水俣で相良氏を降した。これを機に相良氏の支配地は球磨一郡にもどり、天草五人衆も島津氏の配下になった。そして、天正12年に龍造寺隆信を島原で降すと、天正14年には阿蘇氏の浜の館も落として、肥後国は島津氏の領地となった。天正15年に豊臣秀吉が九州に入ると、国衆層は相次いで秀吉のもとに降って、島津氏も降伏し、佐々成政が入国した。【出典

戦国時代とは

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