岡山県の戦国史
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■ 岡山県の戦国史

# 応仁の乱の後、美作国備前国守護である赤松氏の勢力が衰え、備前国の守護代の浦上氏が台頭してきた。永正15年(1518年)から二度にわたって守護の赤松義村が浦上村宗を攻撃したが、村宗は被官宇喜多能家の支援を得て撃退し、大永元年(1521年)には村宗が赤松義村を室津に幽閉して殺害した。【出典

# 義村の子の政村は置塩城(兵庫県姫路市)にあって、名目上は播磨国美作国備前国守護であったが、浦上村宗が実権を握っていた。しかし、村宗が細川氏内訌に関わって、享禄4年(1531年)に討ち死にすると、長男の政宗と二男の宗景が対立、政宗は備前国の南東部、宗景は備前国の東部から美作国の東部を支配した。この頃、出雲国尼子氏が美作国に侵攻し、官家党を滅ぼして美作国の西部を支配下においた。【出典

# 備中国では細川氏守護を務めていたが、延徳3年(1491年)に守護代の荘元資が叛乱を起こした。この叛乱では細川勝久が帰国して鎮圧したが、以後は国内各地で在地領主が台頭して細川氏の力が及ばなくなった。このなかから、荘元資の子の為資が勢力を広げて、やがて出雲国から侵攻してきた尼子氏に従った。【出典

# このように、勢力を広げてきた尼子氏は、天文21年(1552年)に、美作国備前国備中国守護も兼ねたものの、陶晴賢を討った毛利元就が尼子氏を圧迫した。尼子氏の勢力が衰えると、美作国の国衆は、浦上氏に与し、やがて浦上氏にとってかわった宇喜多氏の配下となった。また、備中国の国衆は毛利氏に与して、そのなかでも三村氏が台頭してきた。【出典

# 三村家親は毛利氏の支援をうけて、美作国の西部から備前国の西部まで支配したが、永禄9年(1566年)に宇喜多直家の命を受けた遠藤又次郎に狙撃されて死去し、直家は毛利氏と与して三村氏松田氏を滅ぼして、備前国を本拠に備中国の東南部と美作国の東部を支配した。しかし、天正7年(1579年)には毛利氏から離れて織田方について、豊臣秀吉と与してその版図に入った。直家の子は秀吉から一字を賜って、秀家を称した。【出典

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