静岡県内の「影山・蔭山」の名字の詳細
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 静岡県の名字の特徴
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 影山、蔭山(かげやま)

# 影山は蔭山、陰山と通じ用いられたが、現在は影山姓が多く、静岡県内では167位。【出典

# 鎌倉時代の1307年、幕府の御家人の蔭山左京亮基広は沼津宿の八幡社を勧請したというが、藤原氏流の栗生氏族か。【出典

# 伊豆国河津城主の蔭山氏は清和源氏足利氏流で、鎌倉公方足利持氏の七男の勘解由広氏の後裔と言う。広氏は父が自殺した後、外縁により河津郷(河津町)に住んで、成長後、この地の紀氏流蔭山氏を継いだ。広氏の子孫は、代々北条氏に仕えた。1590年に、豊臣秀吉小田原攻めに際して、当時の河津城主の長門守氏広は落城のときに養女のお万を連れて脱出し、一時田方郡加殿村(修善寺町)に隠れ、後に駿東郡三枚橋(沼津市)に世を忍んで住んだという。この「お万」は後に徳川家康の側妾となり、紀州藩祖の頼宣、水戸藩祖の頼房を生んだ蔭山殿である。一説によると、お万の実父の上総大滝城主の正木邦時(頼忠)は里見氏に滅ぼされ、妻の智光院はお万を連れ子として田中村(大仁町)領主であった父の田中越中守泰行の縁故で河津城主の蔭山氏広と再婚したという。他説では、北条氏康の子の川越城主の氏忠が氏広に預けられ、その妻がお万らを抱えて氏広と再婚したという。また、お万は正木、蔭山氏には関係無く、冷川村(中伊豆町)の百姓の子で、大平村(沼津市)の庄屋の星谷氏の養女となり、三島本陣で働いていた時に、家康に認められたともいう。【出典】 

都道府県毎の名字の特徴 名字の様々な区分
難読名字 難読地名・珍地名
地名と災害 名字の博物館
名字と地名・都道府県編 民俗学の広場内の検索

■ このサイトで使用している「名字の順位」「全国の概算数」「都道府県毎の順位」などについてはこちらを御覧下さい。詳細】 

統計表示