富山県内の「神保」の名字の詳細 | |
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■ 神保(じんぼ): 富山県の神保家
# 富山県の神保家: 中級公家の惟宗家の出ともいわれるが不詳。戦国時代のはじめに越中国の西部に勢力をはったが、後に衰退した。【出典】
・ 越中国の戦国大名。上野国多胡郡神保(群馬県高崎市吉井町)をルーツとする。惟宗姓と言われるが、平氏、橘氏という説もある。畠山氏譜代の家臣であったとみられ、南北朝時代に畠山氏に従って京に上り、畠山基国が越中国の守護となったのに従って越中国に転じ守護代となった。越中神保氏の史料上の初見は1443年に越中国の守護代に任ぜられた神保国宗。室町時代には放生津を拠点として、婦負・射水両郡に勢力を振るい、長誠は細川政元に幽閉されていた将軍足利義材(義稙)を助け出し、放生津に匿っている。1520年、長尾氏の越中侵攻で慶宗が自刃、一時神保氏の勢力は衰えた。しかし慶宗の子の長職(ながもと)は勢力を回復、富山に転じて新川郡西部にも勢力を広げ、椎名氏と越中国を二分し、越後国の上杉氏とも争った。1562年に長職は上杉謙信に降ったが、嫡子の長住は出奔して織田信長に庇護を求めた。謙信の死後、1578年に長住は織田信長の支援を得て富山城を奪還した。しかし、1582年に家老の小島職鎮が上杉氏に呼応し、富山城を奪取、城は織田方によって取り戻されたものの、長住は信長によって越中国から追放されて滅亡した。江戸時代には旗本。上杉氏に従っていた一族の氏張は、謙信の死後、上杉氏を離れて佐々成政の有力武将となり、越中国に再入国した。成政の転封に従って肥後国に転じ、1588年に成政が切腹後は徳川家康に仕えて下総国香取郡で2000石を与えられた。子孫は旗本。【出典】
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