埼玉県内の「太田」の名字の詳細
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■ 太田(おおた): 埼玉県の太田家

# 埼玉県の太田家: 武蔵国の太田氏は清和源氏頼光流で、源頼政の子の広綱を祖とする。広綱の子の隆綱は土御門天皇に仕え、丹波国五箇荘(京都府亀岡市)を領し、資国が丹波国桑田郡太田郷(京都府亀岡市)に住んで太田氏を称した。その後、丹波国上杉荘の上杉氏に仕え、建長4年(1252年)に上杉氏と鎌倉に下向。室町時代には扇谷上杉氏に仕えた。太田道灌の死後、太田氏は岩付太田氏と江戸太田氏に分裂。掛川藩主の太田氏は江戸太田氏の出。【出典

・ 埼玉県の太田氏: 武蔵国の戦国大名清和源氏頼光流で、源頼政の子の広綱(仲綱の養子となった)が祖。隆綱は1200年に土御門天皇に仕えて丹波国五箇荘(京都府亀岡市)を与えられた。国綱の時に丹波国に下向し、国綱の子の資国が桑田郡太田郷(京都府亀岡市)に住んで太田氏を称した。資国は丹波国上杉荘の上杉重房に仕え、1252年に上杉氏に従って鎌倉に下向し、南北朝時代に武蔵国に所領を与えられて武蔵太田氏となり、室町時代には資清が扇谷上杉氏の持朝の執事となって活躍した。 資清の子が資長(太田道灌)で、1457年に江戸城を築いた。1473年に扇谷上杉氏の政真が武蔵国五十子(埼玉県本庄市)で戦死すると、跡を継いだ上杉定正の重臣として活躍。一方、鎌倉五山に学んだ学者でもあり、万里集九を江戸城に招いたり、建長寺・円覚寺の学僧らを招いて隅田川の船上で詩歌会を開いたりしている。しかし、やがて主君の定正との間に齟齬が生じ、1486年に讒言により暗殺された。道灌の死後、太田氏は岩村(槻)太田氏と江戸太田氏に分裂した。のちに掛川藩主となった太田家では、みずからの江戸太田家を直系としているが、本来太田氏の直系は、道灌の養子の資家に始まる岩村太田氏である。天文年間に、資正は上杉氏方の有力武将として活躍したが、1564年に長男の氏資が北条氏康と結んで父の資正を追放し、北条方に転じた。しかし、氏資は北条氏の命で里見氏を攻めて討ち死。岩村太田氏は事実上滅亡した。 資正は二男政景と共に佐竹氏を頼り、1569年に小田城主となって北条氏に抵抗した。1590年に北条氏の滅亡後も取り立てられることはなく、子の政景・資武は共に結城秀康に仕えた。【出典】  

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