「ゆずりは」の名字の由来
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■ 杠(ゆずりは)

【2015/01/06:改編】

# 6789位

※ 「おんなひとりの鉄道旅 西日本編 矢野直美著」を読んでいたら、「木次線」の事が書いてありました。ここには、松本清張の砂の器でも出てきた「亀嵩」駅があります。現在、この駅にはそば屋さんが併設されていますが、そこのそば屋「扇屋」のご主人の名字が「杠」。最初、なんと読むか分かりませんでしたが、読みをみたら「ゆずりは」。これは読めないなぁ。ということで、調べてみました。

# 語源は、ユズリハの生えている場所。「杠」は新年の鏡餅の下に敷く葉で、ユズリハの古い葉は、新しい葉がでるまで見届けて散る。そのためユズリハは代々安心して子孫に後を譲ることを意味するめでたい植物とされた。「ゆずりは」=「譲り葉」なんだね。

# 中国地方から九州北部にかけての名字で、特に島根県仁多郡と佐賀県神埼郡に多くみられる。木次線の亀嵩駅があるのは、まさに島根県仁多郡奥出雲町でした。

# 佐賀県:463位、島根県:648位など。

肥前国神埼郡杠山をルーツとする。

# 杠(ゆずりは): 肥前国神埼郡杠山。佐賀県佐賀市三瀬村杠。背振山地の初瀬川流域、三瀬(みつせ)峠に通じる三瀬山道沿いの山間盆地に位置する。嘉吉2年、阿波国から杠日向守が山内野波に来着し、野波神社の氏子を領民としてこの一帯を支配するようになったという。杠氏は乙宮権現を氏神として祀るとともに、当時七山(杠・関屋・小副川・菖蒲・畑瀬・松瀬・名屋)の宗廟であった野波神社を宗社とし、土地5町歩を寄進、同時に野波を杠山と改めたという。
 野波神社の鐘銘に「肥前州神埼郡杠山当社七山宗廟 野波神御宝前鐘一口 宴(ママ)文明四 六月吉日」と見え、願主檀那は藤原重満とある(日本古鐘銘集成)。杠氏は神埼七山衆の1人として少弐氏方につき、少弐氏から家督を継いだ千葉氏(西千葉)のためにも尽力した。「杠家文書」は文明3年9月24日の少弐政尚知行安堵状をはじめとして、多く少弐氏や千葉氏から杠氏にあてられた中世文書を収める。これによれば杠氏の所領は神崎荘内、佐賀郡、小城(おぎ)郡にまで広がっていたことを知ることができる。のち天正年間まで杠氏は三瀬城の神代勝利に従い、三瀬氏・松瀬氏とともに神代三人衆として活躍した。【出典
・ 杠山村: 江戸時代から明治時代中頃にかけて、肥前国神埼郡にみられた村名で佐賀藩領。
※ これをみると、肥前の杠の地名は、阿波国から来た杠氏が、土地の野波という地名を杠山に改めたということになる。つまり、人名由来の地名ということだが、それなら元々の阿波の杠氏の名字の由来はどうなるんだろう?

# 「ゆずりは」
いつだったかの新聞に、岡山県新見市の銘菓にするために、特産のゆずを使った菓子を作る記事が載ってました。それを「ゆずりは餅」と命名。新見市にある市史跡「楪(ゆずりは)城趾」という山城にちなんで名付けられたそうです。城には楪(ゆずりは)の名木が生えていたので、この名がついたといわれます。しかし、楪城の名前の由来については、もう1つの説もある。即ち、この城の築城者を新見氏ではなく、杠(ゆずりは)氏と考えて、その名に由来するとする説である。これによると、源平合戦の時代に相模国の三浦党に属する三浦六郎重行が、摂津国杠峯に居住し杠氏を称した。その後、備中守護に任じられた重行は新見庄に入り、矢谷城を築き上げ、その城を杠城と呼ぶようになったという。この杠氏と新見氏の関係についてはよく分かっていないそうですが。守護地頭で役職も異なるため、二氏が併存していたのかもしれない。
 ちなみに、新見市に楪(ゆずりは)さんが1件。大半は広島県内に点在する名字のようです。

# 「杠」のつく名字

■ 楪(ゆずりは)

【2016/01/08:新載】

# 広島県や福岡県に多く見られる。

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