「甘利」の名字の由来
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■ 甘利(あまり)

【2022/10/24:改編】

# 3072位

# 清和源氏武田氏流などにみられる。

# 長野県:373位、山梨県:436位、徳島県:727位、神奈川県:1202位など。

# 甲斐国巨摩郡甘利荘(山梨県韮崎市)をルーツとする甘利氏は清和源氏武田氏の一族。

# 長野県小諸市の甘利家も甲斐の甘利氏の一族。

# 神奈川県の甘利家

# 山梨県の甘利家

# 第二次安倍内閣の甘利明(経済再生担当大臣)は神奈川県厚木市の出身。

# 甘利荘(あまりのしょう): 平安時代末期から戦国期にかけて甲斐国巨摩郡にみられた荘園名。平治元年閏5月日の宝荘厳院領荘園注文に「甲斐国甘利荘 前寮頭忠房 四丈白布五十段」とあるのが初見。忠房は左馬助・斎宮頭などに任じられた藤原忠房のことで、道隆流の藤原氏の出身であり、当荘にとっては領家に当たり、宝荘厳院が本家であったと考えられる。在地では甲斐源氏一条忠頼が勢力下に置き、その子行忠はここに館を構えて甘利を称した。しかし、忠頼は元暦元年に源頼朝により誅殺され、行忠も常陸国で捕えられ、翌年殺されたという。そのため、所領はもちろん没官されたのであるが、南北朝期のものと推定される武田福寿丸申状によれば、甘利荘は、後日子孫に返却されたとのことが見えている。ただし鎌倉期を通じて甘利氏は史上に登場せず、おそらく一条氏の惣領家に相当する武田氏の支配に帰したとみてよいだろう。【出典

# 大宝律令により、50戸で一つの里をつくる。後に50戸で一つの郷をつくると改められた。余部、甘利は郷制の余り。50戸で一つの郷を作ったが、55戸の集落はどうなるか?余った5戸は余戸里として「余戸」と名付けられた。「余戸」が転じて「余目(あまるめ)」や「甘利(あまり)」となった。

# 「甘利」の語源

■ 天利(あまり)

【2022/03/07:新載】

# 甘利氏の一族が相模国に転じて改称した。神奈川県厚木市を中心に愛甲郡愛川町や高座郡に多く見られる。【出典

# 「天」のつく名字

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