「鷹司」の名字の由来 | |
【参考資料・文献】 | 【利用上の注意】 |
名字の由来のTop | 地名の由来のTop |
名字と地名のMenu | 「た」行の名字 |
スポンサーリンク |
スポンサーリンク |
■ 鷹司(たかつかさ)
【2023/05/19:改編】
# 公家の名字。
# 公家。近衛家実の四男の兼平が1252年に摂政となり、鷹司室町に住んで鷹司氏を称した。五摂家の一つ。室町時代末期、忠冬の没後跡継ぎがおらず、一時中絶したが、30年後に織田信長の斡旋で二条晴良の三男の信房が再興した。江戸時代中期には閑院宮直仁親王の王子が基輝の嗣子となって、鷹司家を継いだ。江戸時代の家禄は1500石。明治時代に公爵。【出典】
# 美濃国大野郡の国衆。公家の鷹司家の一族の冬基が、美濃国の守護の土岐頼忠の娘を正室にしたことから、土岐氏から大野郡長瀬村(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷扱)を賜って、応永年間頃に長瀬城を築いて拠ったのが祖という。天文17年(1548年)に政光が織田信秀に敗れて討ち死にして滅亡した。【出典】
# 美濃鷹司家: 鷹司家の庶流。美濃国大野郡長瀬村(岐阜県揖斐郡谷汲村)に住んだ。1548年に滅亡した。【出典】
# 京都府の鷹司家: 公家。五摂家の一つ。近衛家の庶流で鷹司室町に住んだ事に由来する。明治維新後には公爵。【出典】
・ 公家で五摂家の一つ。近衛家実の四男の兼平が1252年に摂政となり、鷹司室町に住んで鷹司氏を称したのが祖。1546年に忠冬が38歳で嗣子なく死去。1552年に父の兼輔も死去して中絶したが、1579年に織田信長の斡旋で二条晴良の三男の信房が再興した。江戸時代中期に再び断絶の危機を迎えると、閑院宮直仁親王の第四皇子を基輝の嗣子として継がせている。江戸時代の家禄は当初は1000石で、1682年に500石加増された。1884年に公爵。【出典】
# 鷹司家
# 「鷹」のつく名字。
# 「司」のつく名字。
都道府県毎の名字の特徴 | 名字の様々な区分 |
難読名字 | 難読地名・珍地名 |
地名と災害 | 名字の博物館 |
名字と地名・都道府県編 | 民俗学の広場内の検索 |
■ このサイトで使用している「名字の順位」「全国の概算数」「都道府県毎の順位」などについてはこちらを御覧下さい。【詳細】