水野家
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■ 水野家(みずのけ): 「水野」の名字の由来

# 水野家: 家紋「沢瀉

・ 清和源氏の満政流の浦野・小河(おごう)氏族。三河国春日井郡水野をルーツとする。初代の重清は源頼朝に仕え、15代の孫の忠政の娘が松平広忠に嫁いで家康を産んだが離縁された。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】

# 水野忠邦

# 水野家(下総国結城藩
・ 水野家は、徳川家康の母親の於大(おだい)の方の実家。於大の方の兄の水野信元は織田家についたため、離縁された。桶狭間の戦いの後、水野信元は家康に織田家に従うことを勧め、信元の甥の勝成がその後徳川家に仕え、三河国刈谷藩3万石。大坂夏の陣の功で大和国郡山藩6万石から備後国福山藩10万石へ。五代勝岑(かつみね)が2歳で亡くなったため改易となったが、特別に6代勝長が相続して能登国西谷藩1万石へ。その後、下総国結城藩へ。明治時代には子爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

# 水野家(上野国安中藩
・ 於大の方の甥の分長を祖とする。三河国新城藩1万石から、上野国安中藩へ。しかし、三代元知が発狂しての不祥事で改易。家名は2千石の旗本として残る。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

# 水野家(紀伊国新宮藩
・ 於大の方の甥の分長の弟の重央が、徳川家康の十男の頼宣の教育係を務め、後に紀州藩の付家老となった。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

# 水野家(駿河国沼津藩
・ 水野家の宗家の初代の勝成の弟の忠清を祖とする。忠清は二代将軍の秀忠に仕え、上野国小幡藩1万石。その後、三河国刈谷藩、三河国吉田藩4万石を経て、寛永19年に信濃国松本藩7万石。享保10年に6代忠恒が江戸城の松の廊下で毛利師就に斬りつけて改易。家名は忠恒の叔父の忠毅が継いで旗本7千石。その後、忠毅の嫡男が若年寄となり、三河国大浜藩1万3千石で再興。その後、駿河国沼津藩に転じた。明治元年に徳川家が駿府に転じると、水野家は下総国菊間藩5万石へ。江戸時代には子爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

# 水野家(上総国鶴牧藩
・ 駿河国沼津藩(下総国菊間藩)の初代の忠清の四男の忠増の家系で、初代の忠定は安房国北条藩1万2千石。三代忠韶(ただてる)が上総国鶴牧藩へ。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

# 水野家(出羽国山形藩
・ 出羽国山形藩(近江国朝日山藩)は於大の方の兄で徳川家康の叔父にあたる水野忠守の家系。初代の忠元は二代将軍の秀忠に仕えて下総国山川藩3万石。後に三河国岡崎藩へ。8代忠任が三方領地替えで肥前国唐津藩6万石へ。11代の水野忠邦が老中になりたさに遠江国浜松藩に転封を希望して転じた。そして転封5年には老中首座へ。しかし天保の改革後の反発で減封の上隠居謹慎。12代の忠精が出羽国山形に転封となる。明治時代には子爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】 

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