三方領地替え
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■ 三方領地替え

# 文政6年(1823年)10月に、桑名藩主の松平(奥平)忠尭(ただたか)は、突然国替えを命じられた。陸奥国白河藩の松平(久松)家が桑名に、桑名の松平家武蔵国忍藩に、忍の阿部家が白河に転封となった。石高はいずれも10万石だったが、実質は白河の松平家の一人勝ちで、他の二家にとっては大損だった。白河藩のご隠居で元老中だった松平定信は、飢饉に備えて米をあらかじめ買い占めておくなど機敏だったが、収益がでるような産業開発などはできなかったので、貧乏な白河を捨てて豊かな桑名を得たものである。明治初年の桑名松平家の藩士は、1255名(他に陪臣67名)で、忍阿部家は689名なので、約2倍の藩士がいた。これに見習って老中水野忠邦は、武蔵国の川越藩の松平家に十一代将軍の徳川家斉の子を養子に迎えさせるために豊かな出羽国庄内藩に転封して実高を増やそうとし、また海防のために越後国長岡藩の新潟港を幕府領にしようと、三方領地替えを通知した。しかし、庄内藩の大地主の本間家に庄内藩の統治がかなり民間委託されていたため、この関係が断ち切られることを本間家や領民が嫌って、領民と本間家の取引先である各藩を巻き込んで反対運動がおこり、結局幕府は撤回した。【出典

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