出羽国
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# 旧東山道。

# 太閤検地での石高: 32万石。【戦国大名県別国盗り物語 八幡和郎 PHP文庫】

# 延喜式による国力順位(納税額による)【本当は面白い「日本中世史」 八幡和郎】。出羽国は17位。

# 現在の秋田県のほとんどと山形県

# 出羽国仙北三郡: 山本郡、平鹿郡、雄勝郡。

# 708年に越後国に出羽郡が置かれたのがルーツ。712年に出羽国に昇格し、716年に陸奥国から置賜郡(山形県置賜地方・米沢市周辺)と最上郡(山形県村山地方南部・今の最上郡とは異なる)を割譲。仁和2年(886年)、最上郡は最上郡と村山郡に分離。1869年に「羽前(山形県)」と「羽後(秋田県)」に分割される。

# 出羽国は「いではのくに」。越の国から羽のように飛び出た地域を意味する。

# 11郡71郷。 

■ 秋田郡(あきた): 出羽国(秋田県)にあった郡名。齶田・穐田とも書く。文治5年源頼朝は秋田郡地頭職伊予国出身の御家人公業(きんなり)を補任。公業は小鹿島地頭職も兼帯し、小鹿島氏を名乗る。秋田氏を名乗らなかったのは、秋田城介との関係からであろう。【出典

■ 仙北郡(せんぼく): 出羽国(秋田県)の郡名。「せんぽく」ともいう。

■ 由利郡(ゆり): 出羽国(秋田県)の郡名。由理・油利・油梨・遊里・百合とも書く。11世紀の国策による中世的郡郷制編成時に成立した郡であり、平泉藤原氏の郎従由利維平として名高い由利氏が由利郡郡司職に任命された開発領主とみられる。

■ 最上郡 【最上郡の詳細
・ 現在は山形県最上郡: 新庄市を中心に1市4町3村。
・ 最上は最上川に由来し、「奥の最高地から流れてくる川」の意味。また、「藻が湖説」もある。
・ 古代から中世にかけては、今の村山地方中部を中心とした地域をさした。
・ 当初は陸奥国に属し、「裳上郡」とも書いた。
・ 続日本紀によると、712年に置賜郡とともに陸奥国から出羽国に割譲され、歴史上初めて「最上郡」が文献上に表れた。716年に再度陸奥国として表れているが、後に出羽国に移管。
・ 886年に最上郡が二分割され、「北は村山郡」「南は最上郡」となったが、太閤検地のころ、南北2郡の名称が入れ替えられ、北が最上郡、南が村山郡となる。
# 最上郷(もがみのごう): 平安時代に出羽国最上郡、現在の山形県山形市周辺にみられた郷名。傍証として「最上家系譜」にある「出羽最上郡山形のに城を築き、同年8月6日最上に至り、山形之城に存す」という史料をあげることができる。山形之城のある地域が、最上と意識されていたのである。馬見ケ崎(まみがさき)川扇状地帯に位置し、北は那可郷に接し、西を須川、南を馬見ケ崎川扇状地南部、東を奥羽山脈で区切られる地域である。当郷は最上郡の中心的な郷として、最上郡衙・最上駅も設置されていた。【出典
# 今の村山郡と最上郡は逆だった

■ 飽海郡(あくみ): 出羽国にみられた郡名。「和名抄」刊本には「阿久三」と見え、文禄4年12月2日の坂蔵杢大夫旦那売券には「出羽国庄内、多川郡・ア久ミ郡」と見える。一時遊佐郡と称したが、寛文4年幕府の指示により庄内3郡(遊佐・櫛引・田川)を2郡(飽海・田川)に改め、遊佐郡が飽海郡の称に復した。【出典】【「あくみ」の語源

■ 置賜郡(おいたま)
・ 現在は山形県内陸南部。
・ 続日本記(712年)に陸奥国置賜郡の表記がある。出羽国ではなかったんだね。
・ 国が陸奥に郡を配置した時の佳称で、「おきかわる」という意味。原意は「浮溜ま(うきたま)」で湿地のこと。
・ 「うきたむ」は日本書紀に出てくる、置賜の古地名。
# 出羽国置賜郡は和名抄では「最賜」、延喜式続日本紀では「置賜」と書いた。
# 読みは、和名抄の刊本・於伊太三・延喜式では「おいたむ」、「節用集」文明本では「おいたま」、新撰類聚往来では「をくたん」、「色葉字類抄」前田本では「おいたみ」。他には、置民郡(おいたみ)、大板目(おいため)とも書いた。
# 置賜郡は、古代から中世は置賜(おいたみ)郡、以後は「おきたま」読み。
# 福島市に福島県福島市置賜町がある。
# 平安時代置賜郡は越後とつよい関係があった。
# 伊達郡を本貫とする伊達家は南北朝時代に出羽国置賜郡を手に入れた。
# 宮城郷(みやぎのごう): 平安時代に出羽国置賜郡にみられた郷名で、「和名抄」にいう置賜郡七郷の1つ。当郷域は米沢盆地の中央部、現在の米沢市の西半分および川西町東部、高畠町大字糠野目の一帯に比定されると考えられる。平安後期、行政単位としての当郷は消滅し、中世には当郷域を中心として成島荘が形成された。【出典
・ 置賜(おいたま): 山形県東置賜(おきたま)郡高畠町置賜(おいたま)駅。「おい(追)」+「たま(山頂)」で、山頂に向かって徐々に開拓されていったという地名。【出典
※ 普通は「うきたむ」説ですが、ちょっと違いますね。

■ 櫛引郡(くしびき): 戦国時代から寛文4年に出羽国にみられた郡名。櫛挽郡とも書いた。寛文4年幕命により櫛引郡は廃止され当郡域は田川郡に包括された。
・ 戦国期から寛文4年の郡名。櫛挽郡とも書いた。庄内地方の川南(最上川左岸一帯)は、鎌倉期〜南北朝期にかけては、最上川に沿って海辺荘、その南に大泉荘があり、川南の南半分が田川郡の範囲となっていた。しかし室町期に至り、これらの荘園はその実体を失い、川南全域が田川郡と汎称されるようになったものと思われる。戦国期に入ると、庄内地方はほぼ武藤氏の領国と化し、それに伴って私的な呼称として櫛引郡の名称が発生したものと推定され、それが戦国末期には一般的となり、公的にも認められるようになったものと思われる。その郡域は、川南の東半分、赤川流域以東のほぼ明治11年に成立した東田川郡の範囲にあたり、庄内地方、現在の立川町・藤島町・羽黒町・朝日村・三川町・櫛引町・余目(あまるめ)町のほぼ全域と鶴岡市酒田市の最上川以南の一部をも含むものであったと思われる。寛文4年幕命により櫛引郡は廃止され当郡域は田川郡に包括された。【出典

■ 田川郡(たがわ): 出羽国にみられた郡名。北は飽海郡、東は最上・村山郡、南は新潟県に接し、西は日本海に面する。「和名抄」刊本には「多加波」と見える。郡域は現在の鶴岡市・櫛引町に及び、温海町をも含んだものと思われる。「延喜式神名帳」によれば、伊?波神社が田川郡に鎮座しており、この伊?波神社が現在の羽黒神社であることから、羽黒町をも含んだものかと思われる。出羽郡と当郡との境界は未詳であるが、現在の鶴岡市がほぼ当郡に属したものと思われる。
戦国期から近世初期にかけて庄内三郡(遊佐・櫛引・田川)と称した頃は、庄内平野の南西部にあたり、北は最上川をはさんで遊佐郡、南は越後国岩船郡(新潟県)、東は櫛引郡、西は日本海に接した。【出典
・ 田川郡: 建郡は未詳。天武天皇11年4月、越蝦夷伊高岐那らが俘人70戸を請うて、一郡を建てようと願い出てこれを許されている。

■ 豊島郡(としま): 戦国時代から寛文4年まで出羽国にみられた郡名。戸島とも書く。
戦国期に豊島城に拠って豊島氏を名乗り、岩見川流域一帯と雄物(おもの)川下流部をおさえた、畠山氏の勢力範囲を豊島郡と称したという。戦国末期に当地方を掌握し秋田郡に組み入れた秋田氏は、この地域を「秋田郡内豊島庄」と称し、管轄のために豊島城に送り込んだ一族・代官をして豊島氏の名跡をつがせている。【出典

■ 村山郡(むらやま)【村山郡の詳細
・ 村山の語原は群山(むれやま)。
・ 村山郡の郡衙は東根市郡山にあった。
・ 村山郡: 明治元年には35町424村36万4572石。明治10年いは37町402村、戸数42245、25万818人。
・ 「寒河江荘」「小田島荘」はどちらも摂関家領だった。地頭はそれぞれ大江氏と中条(小田嶋)氏。
・ 戦国期以来最上氏の領国の中心である当郡は近世初頭には最上あるいは最上郡と称されていた。村山郡と正式に称されるようになるのは正保国絵図作製時以降と考えられる。【出典
・ 仁和2年11月、最上郡を2郡に分けた。この時、現在の最上地方から上山(かみのやま)市に及んでいた広大な最上郡のうち、北半分が村山郡となった。天正18年の豊臣秀吉による奥羽仕置により、最上義光は村山・最上両郡を安堵されている。文禄年間、太閤秀吉が検地を命じた際、南を村山郡、北を最上郡とし、古代以来続いた最上郡と村山郡との位置関係が逆転した。さらに、江戸初期の正保の国絵図作製の時、現在の村山郡・最上郡に政治上、確定したと思われる。ただし、同国絵図では、のちに最上郡に含まれる最上川南西部の古口・蔵岡・角川・南山・赤松・堀之内と満沢(小国郷)の各村が村山郡に含まれている。過渡期の事情を示すともみられる。【出典
・ 山形県東根市村山市寒河江市、西村山郡、最上郡、新庄市尾花沢市、北村山郡。仁和2年(886年)に最上郡から分置。和名抄の訓は「牟良夜末」。【日本古代史地名事典 雄山閣】

■ 遊佐郡(ゆざ): 戦国時代から寛文4年に出羽国にみられた郡名。古代から中世には飽海郡と称していたが、戦国期に至り武藤氏が庄内をほぼ平定する間に私的な呼称として遊佐郡の名称が発生し、それが公式にも認められるようになったものと思われる。当郡では天正18年および文禄3年に行われた太閤検地により正式に遊佐郡の名称が確定したものと思われ、慶長3年上杉景勝が会津に移封する際の領知目録に「一、四万六千二百四十三石九斗七升四合八 遊佐郡」と見え、遊佐郡の名称と総石高が確定している。当郡は慶長6年最上氏領となったが、慶長17年10月18日の日付を有する大物忌神社棟札に「三庄遊佐郷飽海郡吹浦之也」とあり、飽海郡の名称も伝統的に使用されている。寛文4年幕命により飽海郡と旧称に復した。【出典

■ 由利郡(ゆりぐん): 出羽国由利郡
・ 出羽国(羽後国、秋田県)の郡名。由理・油利・油梨・遊里・百合とも書く。郡名の初見史料は、「吾妻鏡」建保元年5月7日条に「同(陸奥国)由利郡」とある。陸奥国は出羽国の書き誤りと推定される。日本海に面した秋田県の西南部に位置し、中世から現在まで郡境にかなりの変動があった。おおむね北は雄物(おもの)川を境に秋田・河辺(かわべ)の両郡、東は出羽山地をもって仙北(せんぼく)(山本)・平鹿(ひらか)・雄勝(おがち)の3郡、南は鳥海山を主峰とする山地をもって飽海(あくみ)・最上(もがみ)の両郡と接する。古代には飽海郡の雄波・由理・余戸の3郷と河辺郡の川合・中山・邑知(おうち)・田郡(たごおり)・大泉の5郷の地に該当するとみられ、そのために通説では由利郡の成立を史料上初見の鎌倉初期に求める。しかし実際は、11世紀の国策による中世的郡郷制編成時に成立した郡であり、平泉藤原氏の郎従由利維平として名高い由利氏が由利郡郡司職に任命された開発領主とみられる。平安末期には、令制飽海郡雄波郷一帯に竹島荘など2、3の荘・保も成立。出羽国置賜(おきたま)郡・最上郡や陸奥国の白河・岩城・信夫(しのぶ)・宮城各郡などの平安末期での郡・荘・保再編過程と照合すると、まず由利郡が成立し、次いでまもなく荘・保も成立したと推定される。由利郡は成立時から複雑な領有関係を内包したといえる。名勝地の象潟(きさかた)は、平安中期からの歌枕の地として知られる。【出典】 


# 出羽柵
・ 柵への移民を「柵戸(きのへ)」と言った。
・ 716年に中納言の巨勢麻呂は、「出羽国を建ててから数年たったが、吏民もすくなく、狄徒(てきと)もまだなれしたしまない。その地は肥えて、田野は広大である。願わくば、近隣の国民を移住させ、蝦夷を教諭して、あわせて地利をひらかせたい。」と朝廷に言上し、許されている。【日本の中の朝鮮文化(12)陸奥・出羽ほか 金達寿 講談社】

# 続日本紀和銅7年条(714年)に、尾張・上野・信濃・越後などの民200戸を出羽の柵戸(きのへ)へ移した。

# 元禄7年 甲戌  5月27日: 秋田地震。死者394、怪我人198、死馬13疋、家の被害2517軒。【朝日文左衛門「鸚鵡籠中記」 加賀樹柴朗 雄山閣】

# 出羽国には和銅年間から霊亀年間にかけて、尾張国、上野国、信濃国、越後国から柵戸の移住が盛んに行われた。出羽国への交通路として、延喜式に最上、村山、野後、避翼、佐藝(鮭川村)、遊佐、由理、白谷、飽海、秋田の各駅の駅伝馬が規定された。【日本古代史地名事典 雄山閣】

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