庄内藩
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■ 庄内藩(鶴岡藩): 山形県鶴岡市

・ 「庄内」の地名「鶴岡」の地名

・ 酒井家

・ 左衛門尉酒井家の家紋「丸に片喰紋」。

・ 酒井左衛門尉

# 16万7千石 藩主酒井家は徳川四天王の一人酒井忠次嫡流戊辰戦争では奥羽越列藩同盟。維新後は減知され「大泉藩」と変えた。出羽松山藩主の酒井家は分家。
※ ちなみに、大泉藩の大泉だが、このあたりが昔は大泉荘という荘園だったことに由来する。

# 庄内藩は1622年に酒井家が鶴岡に転じた後、石高に見合った兵力を揃えるために、改易となった最上家山形市)の家臣を多く召し抱えた。

# 1707年におきた「富士山の大噴火」で被害を受けた、東海道の藤枝付近の復旧工事を幕府から命じられた。
水野重治、上田頼母、松平武右衛門の家老は、藩主の贅沢を禁じ、用度の節約を要請した。なんでもこの時代の四代藩主の酒井忠真は遊び人で相当のお金を使ったそうだ。東海道の復旧工事の総額は2万2千両で、その多くは藩内の豪商が負担したそうだ。

# 戊辰戦争後、会津への転封が決定したが、磐城国平に変更させた。そして、豪商の本間家を中心とした働きにより、領内から30万両の献金を集め、結果として70万両の献金で庄内への残留に持ち込んだ。【江戸300藩の意外な「その後」 日本博学倶楽部 PHP研究所】

# 庄内藩: 戊辰戦争による死者は322人。【江戸300藩の意外な「その後」 日本博学倶楽部 PHP研究所】

# 明治維新後に庄内藩(大泉藩)は、当初は会津12万石へ、ついで磐城平へと移転先が替えられたが、領民や本間家の運動で鶴岡に留まることができた。【消えた都道府県名の謎 意外と知らない「ふるさとの成り立ち」47の物語 八幡和郎 イースト新書Q】

# 酒井家18代当主の酒井忠久(平成29年現在)。酒井家は、江戸時代の最も北に配置された譜代大名。【お殿様は「今」 加藤明 洋泉社】

# 庄内藩(しょうないはん): 出羽国。鶴ヶ岡城。酒井家。譜代大名。14万石。元和8年に立藩。控間:溜間格:城主位階:従四位下。上屋敷:千代田区大手町。元和8年の最上家の改易によって、酒井忠勝が信濃国松代藩から入封して立藩した。酒井家十二代が幕末まで続いた。明治維新後には大泉藩と改称した。【出典

# 本間さまの経済再生の法則

# 庄内藩の武家屋敷の垣根は五加(うこぎ)が多い。屋根は茅葺きであった。【武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景 大岡 敏昭 角川ソフィア文庫】

※ 140818: やはり、昔も今もお上に逆らうとしっぺ返しが。庄内藩の三方領地替えの頓挫の報復?に庄内藩は、鳥取藩や貝淵藩や秋月藩とともに、難工事の印旛沼の干拓工事を申せ使った。庄内藩は1461人を派遣したが、19人が死亡。

# 庄内藩の北海道への入植地

# 江戸時代末期の、領地替え(三方領地替)に際して川越藩は3人の隠密を庄内藩に送り込んだが、その報告によると、
「庄内領の実際の収穫高は30万石ほどである。領民の気風は律儀で、贅沢な暮らしをしている者もない。城内は広く、堀は満々と水をたたえている。城外の武家屋敷は500軒ほどあり、足軽屋敷などを含めると計2300〜2400軒に達する。米価は金十両で33〜34俵の米が買える価格である。気候は三月末から暖かくなり、六月頃にはたいへん暑い八月頃から寒くなり、十月頃から雪が降り始める。庄内領の広さは東西八里三十六町五十間、南北二十五里二十七町。水田の多い土地柄である。【出典

# 庄内藩士: 秋保家 ・ 朝岡家 ・ 荒川家 ・ 石原家 ・ 潟ノ保家 ・ 北爪家 ・ 地主家 ・ 白井家 ・ 末松家 ・ 竹内家 ・ 楯岡家 ・ 中台家 ・ 芳賀家 ・ 弭間家 ・ 松平家 ・ 万年家 ・ 毛呂家


【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。

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