山形藩
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 藩のTop
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 山形藩(山形県山形市)

# 「山形」の地名

# 最上家・外様

# 最上義俊(1606〜1631年): 山形藩の三代藩主。

# 最上義俊は1617年3月、変死した父の最上家親のあとをついで山形藩主となった。

# 最上家の先祖の斯波兼頼は、1356年に按察使(あぜち)将軍に任ぜられ、出羽国最上郡山形に転じ、最上氏を称した。江戸時代の初代藩主最上義光は57万石。

※ 「最上郡山形」っておかしくないか?山形って「村山郡」でしょ?そのわけは

# お家騒動で1621年に領地を没収され近江国1万石に転封、義俊の死後、子の義智が5000石で交代寄合

# 山形藩(やまがたはん): 出羽国。山形城。水野家。譜代大名。5万石。慶長5年(1600年)に立藩。控間:雁間格:城主位階:従四位下。上屋敷:千代田区霞が関関ヶ原の合戦ののちに、最上義光が57万石で立藩。しかし、最上家元和8年に改易になって、譜代大名が入れ替わり立ち替わりに入った。幕末に水野家が入封した。【出典

# 幕末

・ 水野家5万石・譜代大名

・ 1622年に最上家改易

・ 1845年に水野忠邦の子の忠精が浜松から入封。岡崎藩水野家の分家。

# 山形藩(やまがたはん)

・ 最上氏は義光から家親その子の義俊と継がれたが、一族や有力家臣間の対立抗争が続き、元和8年、国政不取締のかどで改易に処された。義俊は近江(現滋賀県)に移され、近江・三河(現愛知県)両国に各5千石の1万石を与えられた。

・ 元和8年の最上家改易後の山形城には譜代の鳥居忠政が磐城平(現福島県いわき市)から22万石(20万石ともいう)で入封した。忠政の子忠恒は寛永13年に継嗣を定めずに病死したため所領は没収され、異母弟忠春は信濃高遠(現長野県上伊那郡高遠町)に3万石を与えられ、鳥居家の跡を継いだ。

・ 信濃高遠から将軍徳川家光の異母弟にあたる保科正之が20万石で山形に入封した。寛永20年、正之は会津(現福島県会津若松市)に転封(23万石)。

・ 正保元年正月越前大野(現福井県大野市)から松平直基が15万石で入部。直基は慶安元年6月播磨姫路(現兵庫県姫路市)に転封

・ 慶安元年直基と交替に姫路から松平忠弘が入部した。山形は「奥筋の押え」として中国筋の姫路と同様に幕府の軍事的要衝として、譜代藩の交替地であったが、寛文8年8月の奥平氏の入部以後は左遷の地となった観がある。奥平氏時代の侍屋敷323、扶持人屋敷383、足軽853、山形町屋2、381、所領107か村。

・ 大老堀田正俊の横死後、その子正仲は10万石で貞享2年6月山形に移ったが、翌貞享3年7月には福島(現福島県福島市)に転じた。

・ そののちには松平直矩が豊後日田(現大分県日田市)から10万石で転封した。直矩は直基の子で、藩内不取締のかどで7万石に減封されていたのである。

・ 元禄5年8月には白河(現福島県白河市)の松平忠弘と崇替となり、次いで元禄13年正月には福島から堀田正虎が再び山形に10万石で入封した。堀田正虎は先の山形藩主正仲の弟である。これまでの山形藩主はいずれも短期間の在封であったが、堀田氏延享3年まで正虎・正春・正亮の3代46年に及んでいる。

・ 延享3年堀田正亮は下総佐倉(現千葉県佐倉市)に転封し、松平乗佑(6万石)が山形に転じた。最上氏以来の大規模な山形城はこの頃から衰微し、整理縮小された。

・ 明和4年に秋元氏が入部。秋元氏は4代78年間で、歴代山形城主のうち最も長かった。この間には天明の飢饉や享和元年の村山郡一揆、天保の飢饉などがあった。

・ 弘化2年11月、秋元氏は上野館林(現群馬県館林市)に転封

・ 弘化2年、水野氏が入部。水野忠精は、先に天保改革を実施した忠邦の子で、7万石から5万石に減封された上の辺地への左遷であった。水野忠精の子忠弘のとき戊辰の動乱を迎えた。藩主父子在京の留守中、家老水野三郎右衛門元宣(もとのぶ)が中心となって激変する情勢に対応した。慶応4年4月には新政府軍を迎えて庄内藩と交戦し、やがて奥羽越列藩同盟に加盟したが、明治元年9月敗れて降伏した。同年12月藩主忠弘は謹慎を命じられ、同2年6月版籍を奉還して山形藩知事に任命されたが、同3年7月近江朝日山藩知事に転出し、山形藩領は、政府直轄から山形県に編入された。【出典

# 保科時代に寒河江氏の白岩でおきた一揆の首謀者は、山形藩(保科家)に捕らえられ、馬見ヶ崎河原の長町河原で磔とされた。

# 山形藩(やまがたはん)

・ 戦国期の覇者最上義光は関ケ原の合戦後置賜(おきたま)を除く現在の山形県の全域と秋田県の南部に及ぶ広大な所領を家康から安堵された。所領は57万石と公称されたが、実高は75万石ともいわれた。最上氏は家親その子の義俊と継がれたが、一族や有力家臣間の対立抗争が続き、元和8年、国政不取締のかどで改易に処された。義俊は近江(現滋賀県)に移され、近江・三河(現愛知県)両国に各5000石の1万石を与えられた。【出典

・ 元和8年最上家の改易後の山形城には譜代の鳥居忠政が磐城平(現福島県いわき市)から22万石(20万石ともいう)で入封した。忠政の子忠恒は寛永13年に継嗣を定めずに病死したため所領は没収され、異母弟忠春は信濃高遠(現長野県上伊那郡高遠町)に3万石を与えられ、鳥居家の跡を継いだ。鳥居氏と崇替に信濃高遠から将軍家光の異母弟にあたる保科正之が20万石で山形に入封した。【出典

・ 寛永20年、正之は会津(現福島県会津若松市)に転封(23万石)し、翌正保元年正月越前大野(現福井県大野市)から松平直基が入部するまでの約半年間は幕府の直支配となり、代官松平清左衛門が郷村を管理した。松平直基は15万石であったから、山野辺以下の周辺部が収公された。【出典

・ 松平直基は慶安元年6月播磨姫路(現兵庫県姫路市)に転封し僅か5年間の領有だったのでみるべき施政はないが、正保2年の大庄屋任命は地方を整備したものとして注目される。【出典

・ 松平直基と交替に姫路から松平忠弘が入部した。山形は「奥筋の押え」として中国筋の姫路と同様に幕府の軍事的要衝として、譜代藩の交替地であったが、寛文8年8月の奥平氏の入部以後は左遷の地となった観がある。奥平氏の山形転封は、殉死の禁を破り、家臣の党争などのため11万石から9万石に減封の上の左遷であった。漆山領3万石は幕府領となり、東根(ひがしね)領3万石は宇都宮(現栃木県宇都宮市)に転封した松平忠弘領となった。【出典

・ この頃から村山郡は山形藩領の縮小につれて幕府領・諸藩の飛地領が増大し、村付も入り交った錯雑状態を呈するに至った。奥平氏時代の侍屋敷323、扶持人屋敷383、足軽853、山形町屋2381、所領107か村。【出典

・ 大老堀田正俊の横死後、その子正仲は10万石で貞享2年6月山形に移ったが、翌貞享3年7月には福島(現福島県福島市)に転じた。そののちには松平直矩が豊後日田(現大分県日田市)から10万石で転封した。直矩は直基の子で、藩内不取締のかどで7万石に減封されていたのである。元禄5年8月には白河(現福島県白河市)の松平忠弘と崇替となり、次いで元禄13年正月には福島から堀田正虎が再び山形に10万石で入封した。堀田正虎は先の山形藩主正仲の弟である。【出典

・ これまでの山形藩主はいずれも短期間の在封であったが、堀田氏延享3年まで正虎・正春・正亮の3代46年に及んでいる。享保8年の長瀞騒動の鎮圧や、質地と名寄帳の整理を実施したことが注目される。堀田正虎は延享元年大坂城代となり、4万石を大坂近傍に与えられたので村山郡の4万石は幕府領となった。延享3年正亮は下総佐倉(現千葉県佐倉市)に転封し、松平乗佑(6万石)が山形に転じた。乗佑の山形城付領は3万7000石で、ほかは下総・常陸(現茨城県)などに領有し、堀田正亮も村山郡に4万石を飛地として領有した。松平乗佑の所領は山形城下2万石と、周辺の22か村のみであった。【出典

・ 最上氏以来の大規模な山形城はこの頃から衰微し、整理縮小された。ことに明和4年に秋元氏が入部するまでの3年間の幕府領時代は甚しく荒廃した。秋元氏は凉朝(すげとも)・永朝(つねとも)・久朝・志朝(ゆきとも)の4代78年間で、歴代山形城主のうち最も長かった。この間には天明の飢饉や享和元年の村山郡一揆、天保の飢饉などがあった。弘化2年11月上野館林(現群馬県館林市)に転封したあとも、村山郡に4万6000石余を領有し、漆山に陣屋を設けて支配した。【出典

・ 弘化2年から山形城主となった水野忠精は、先に天保改革を実施した忠邦の子で、7万石から5万石に減封された上の辺地への左遷であった。忠精の子忠弘のとき戊辰の動乱を迎えた。藩主父子在京の留守中、家老水野三郎右衛門元宣(もとのぶ)が中心となって激変する情勢に対応した。慶応4年4月には新政府軍を迎えて庄内藩と交戦し、やがて奥羽越列藩同盟に加盟したが、明治元年9月敗れて降伏した。【出典

# 山形の城下町の人口

# 山形藩士: 上野山家 ・ 小池家

■ 「山形藩」転じて「蛇足の数々」


【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。

統計表示