源頼朝
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■ 源頼朝(みなもとよりとも): 「源」の名字の由来

# 鎌倉殿の13人と名字

# 代表家紋

# 鎌倉幕府の初代将軍。

# 源頼朝の墓が鎌倉にあるが、1779年に薩摩藩主島津重豪が先祖の供養として建立した。近年に鎌倉市に寄付されるまで島津家の所有だった。島津家の初代の忠久は渡来氏系の秦氏系惟宗氏の出だが、忠久は父母が結婚する前の連れ子だとした。父は惟宗広言で、母は源頼朝の乳母であった比丘尼の娘である丹後局で、二代将軍の源頼家の正室の父である比企能員の妹と言われる。【「系図」を知ると日本史の謎が解ける 八幡和郎 青春出版社】 

# 源頼朝が蜂起して、石橋山の戦いで敗退した後、伊豆から房総に逃れた。そして、上陸した地点から千葉市の千葉城(亥鼻(いのはな)城)に向かう途中、頼朝に呼応する兵が徐々に増えていった。それらを表す地名が残る。
・ 百坂(ももさか): 千葉県富津市
・ 三百騎坂: 
・ 千騎坂: 
・ 万騎坂(万坂): 千葉県袖ケ浦市
【千葉地名の由来を歩く  谷川彰英 ベスト新書】

# 源頼朝の家臣団

■ 源頼朝(みなもとによりとも)【出典

・ 1147ー1199年。享年53歳(病死)。

・ 出身地: 京。

・ 家族: 父:源義朝。弟:源義経

・ 肩書き: 鎌倉幕府の初代将軍。

・ 源頼朝の初陣は、13歳のときの平治の乱の時。父の義朝と共に平清盛と戦っての敗戦であった。父と東国に逃れる途中ではぐれ、平家に捕らえられた。義朝も見つかって殺害されたが、幼い頼朝は池禅尼(平清盛の継母)の憐憫を受けて、命を救われて伊豆の蛭ヶ小島に流された。清盛が頼朝の監視を命じたのは伊東祐親で、その後の監視役は北条時政となった。頼朝は時政の娘の政子を娶り、平家討伐の思いを胸に秘めて暮らした。1180年に頼朝は後白河法皇の子の以仁王からの平家討伐令旨を受けて挙兵した。初戦は8月の石橋山で、平氏の大庭景親らの奮戦に敗れた。一旦は安房国に逃れたが、平家に不満をいだく坂東平家が集結した。清盛から頼朝追討を命じられた平維盛軍を、富士川の戦いで敗走させ、馳せ参じた弟の源義経源範頼に平家追討をまかせて鎌倉に戻って幕府の政治体制づくりに専念した。そして、1185年に仲違いした義経捜索を名目に、各地に守護地頭を任命する権利を後白河法皇に認めさせた。こうして鎌倉幕府は成立した。その後、頼朝は義経を匿った奥州藤原氏を滅ぼして、1192年に征夷大将軍となった。


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