源氏の人々
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■ 源実朝(みなもとのさねとも)

■ 源義家(みなもとのよしいえ)

■ 源義仲(みなもとのよしなか)

■ 源頼家(みなもとのよりいえ)

■ 源頼朝(みなもとのよりとも)

■ 源高明(みなもとのたかあきら): 914−982年。醍醐天皇の皇子。源の姓(源氏)を賜って臣下になった。左大臣にのぼったが、藤原氏の陰謀で太宰権帥として配流された。これを安和の変という。【出典

■ 源為朝(みなもとのためとも): 1139−1170。源為義の八男。弓の名手という。鎮西八郎を称す。保元の乱で父の為義と共に崇徳上皇方に敗れた。【出典

■ 源為義(みなもとのためよし): 1096−1156年。源義親の四男。藤原摂関家に近づいて勢力の拡大を図った。保元の乱崇徳上皇方に敗れて、後白河天皇方についた嫡男の源義朝に殺された。【出典

■ 源経基(みなもとのつねもと): ?ー961年。父親は清和天皇の第六皇子の貞純親王。母親は源能有の娘。六孫王と名乗ったともいう。武蔵守に次ぐ地位の武蔵介となったが、地元の豪族や平将門と対立した。京に将門の謀反を訴えた。後に鎮守府将軍になった。【出典

■ 源範頼(みなもとののりより): ?ー1193年。源義朝の六男。源頼朝の挙兵に応じて、源義経とともに平家の追討に参加して、戦功を上げた。頼朝に従ったが、忠誠を疑われて伊豆国の修禅寺で殺された。【出典

■ 源満仲(みなもとのみつなか): 913?ー997年。源経基の嫡男。鎮守府将軍になった。安和の変で源高明らを退けて、藤原摂関家と結んで、勢力を伸ばした。摂津国多田に、多くの一族郎党とともに移り住んだ。【出典

■ 源行家(みなもとのゆきいえ): ?ー1186年。源為義の十男。以仁王平家打倒の令旨を奉じて、源頼朝源義仲ら諸国の源氏の決起を図った。【出典

■ 源義親(みなもとのよしちか): ?ー1108年。源義家の嫡男。豪勇で知られたが、対馬守に任ぜられて略奪を働いて、隠岐国へ流された。しかし、隠岐から出雲国に渡って反乱を起こしたために、平正盛に追討された。【出典

■ 源義平(みなもとのよしひら): 1141ー1160年。源義朝の長男。15歳で叔父の義賢を討って、悪源太と呼ばれた。平治の乱で義朝とともに戦ったが敗れて、処刑された。【出典

■ 源義朝(みなもとよしとも): 1123ー1160年。源為義の嫡男で、源頼朝源義経の父。関東で武士団を統率した。保元の乱で勝利したが、平清盛と争って、平治の乱で敗れた。東国に逃げる途中に、家臣に裏切られて殺された。【出典

■ 源義光(みなもとよしみつ): 1045?ー1127年。源頼義の三男で源義家の弟。近江国(滋賀県)の三井寺(新羅明神・しんらみょうじん)で元服して、新羅三郎を称した。後三年の役で源義家の救援に赴いた。源氏の棟梁の座を狙い、義家の子の源義忠を暗殺したとされる。【出典

■ 源頼信(みなもとのよりのぶ): 968−1048年。源満仲の三男。源頼光の弟。頼光と同様に、藤原摂関家の藤原満兼、藤原道長に仕えた。平忠常の乱の乱を征して、東国の源氏勢力の礎を築いた。【出典

■ 源頼政(みなもとのよりまさ): 1104−1180年。源仲政の長男。平家の政権下にあって、従三位の高位についていたが、以仁王と平家の打倒を図り、諸国の源氏令旨を伝えた。しかし、計画が露見して、宇治で敗死した。【出典

■ 源頼光(みなもとのよりみつ): 948−1021年。源満仲の嫡男。摂津国多田の地を相続した。財力をたくわえ、藤原道長の側近として勢力を伸ばした。酒呑童子や土蜘蛛退治の伝説でも有名。【出典

■ 源頼義(みなもとのよりよし): 998−1075年。源頼信の嫡男。父とともに平忠常の乱を征した。陸奥守、鎮守府将軍になって、東国への勢力拡大を図った。清原氏の助けを得て、前九年の役で、子の源義家とともに安倍氏を討った。【出典


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