後白河天皇
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■ 七十七代: 後白河(ごしらかわ)天皇

・ 大治2年(1127年9月11日)生。鳥羽天皇の子で近衛天皇の兄。久寿2年(1155年7月24日)に29歳で践祚保元3年(1158年8月11日)に32歳で退位。建久3年(1192年3月13日)に66歳で崩御。

# 後白河法皇(ごしらかわほうおう)【出典

・ 1127−1192年。享年66歳(病死)。

・ 出身地: 京。

・ 家族: 父:鳥羽天皇。子:以仁王

・ 肩書き: 第七十七代天皇。鳥羽天皇の第四皇子。

・ 1155年に鳥羽法皇が院政中に、近衛天皇が十七歳で夭折すると、鳥羽法皇は自分の第四皇子の雅仁親王を後白河天皇として即位させた。雅仁親王は以前から鳥羽法皇に「即位の器」ではないと評価されており、次期の天皇は崇徳上皇の子といわれていたため、崇徳上皇は不満だった。崇徳上皇は後白河天皇の兄だが、翌年に鳥羽法皇が病死すると二人は対立して、保元の乱へのきっかけとなった。後白河天皇は保元の乱に勝利して、子の二条天皇に譲位して院政をはじめた。後白河上皇は源頼朝よりも平清盛を重用したため、義朝は不満を持った。そして、それが宮中の争いと重なって平治の乱へとなっていく。一時は、義朝軍は後白河上皇を幽閉したが、結局は清盛方の勝利で終結した。しかし、これによって平清盛の勢力が拡大して、後白河法皇は今度は平家の追討をくわだてた。しかし、鹿ヶ谷の陰謀が露見して、法皇は清盛に鳥羽殿に幽閉され、院政をやめさせられた。しかし、子の以仁王が法皇の意志を継いで、平家追討の令旨を出したため、源頼朝を中心に源氏が蜂起して、平家の滅亡へと至る。1190年に法皇は、上洛した頼朝と初めて対面して、頼朝を右近衛大将にすることで、鎌倉幕府の体制を認めた。後白河法皇の死後、頼朝は征夷大将軍となって鎌倉幕府が成立した。


【参考: 令和日本史記 126代の天皇と日本人の歩み 八幡和郎 ワニブックス】
【参考: 日本人なら知っておきたい 天皇家の謎 「歴史読本」編集部 KADOKAWA

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