大分県の戦国史
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■ 大分県の戦国史

# 豊後国は、代々大友氏守護を努めていたが、応永2年(1395年)に九州探題の今川了俊が失脚したのを機に周防国大内氏が九州に進出し、以後大内氏の滅亡まで両氏は激しく争った。大友氏は豊後国だけではなく、豊前国筑前国までその勢力を伸ばした。【出典

# 南北朝時代末期から二流に分かれていた大友氏は、寛正3年(1462年)に親繁が嫡子の政親に家督を譲ったことで統一された。しかし、政親は、母の実家である大内氏の支援を得た嫡男の義右と対立した。明応5年(1496年)に義右が急死すると、大内義興は政親を切腹させ、大友氏の家督は政親の弟の親治が継いだ。親治の子が義長で、この二代の頃から大友氏は戦国大名へと成長した。【出典

# 義長の孫が義鎮(のちの宗麟)である。義鎮の家督相続に際しては、嫡男の義鎮と三男の塩市丸の間での跡目争いがあり、天文19年(1550年)に義鎮派の津久見美作、田口鑑親らが、大友館の二階で就寝していた義鑑と塩市丸らを襲撃して殺害するという「二階崩れの変」があった。【出典

# こうして、家督を継いだ義鎮は大友氏の全盛期を築き上げ、筑前国筑後国豊前国豊後国肥前国肥後国守護職日向国伊予国の半国を支配し、九州の覇者になった。【出典

# 天正6年(1578年)に大友宗麟日向国高城で島津氏に大敗、これを機に龍造寺隆信筑後国に侵入し、さらに各地で国衆層の離反が相次いだ。さらに、島津氏が日向国を落としたことで宗麟は大坂にのぼって豊臣秀吉に謁見して、その軍門に降った。しかし、子の義統は文禄2年(1593年)に朝鮮の平壌で明軍の攻撃を受けた際には小西行長を見捨てて退却したため改易された。【出典】 

戦国時代とは

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