香川県の戦国史 | |
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■ 香川県の戦国史
# 応仁の乱の際、讃岐国は東軍の細川勝元の分国であったため、守護代の安富氏と香川氏の代官が兵を率いて上洛するなど、機内での戦いに参戦した。当時は、讃岐国にあった十三郡のうち、六郡を香川氏、七郡を安富氏が掌握していたが、安富氏の支配地は実質的には国衆の香西氏が勢力を持ち、さらに香西氏を支えていたのは讃岐藤原氏と言われた羽床氏の一族であった。【出典】
# 永正4年(1507年)に、細川京兆家の内紛があり、山城国の守護代をつとめていた香西元長が細川澄之派として細川澄元を襲ったものの逃し、逆襲されて元長は安富氏、香川氏ともども討ち死にした。その結果、澄之派に属していた讃岐国の国衆の勢力が衰え、代わって京兆家を継いだ澄元派の阿波三好氏の勢力が強くなり、讃岐国にも影響を及ぼすようになった。【出典】
# まず、讃岐国の東部で、守護代の安富氏と国衆の寒川氏が対立、さらに阿波国の三好氏の後ろ盾を得た十河氏が勢力を伸ばし、寒川・十河両氏は結んで安富氏を降した。さらに、香西氏も三好氏に服属したことから、永禄元年(1558年)に三好義賢は讃岐国の西部の香川氏を攻め、以後は三好氏のもとで東部は十河氏、西部は三好氏の家臣の篠原氏が支配した。【出典】
# 天正元年(1573年)に篠原長房が死去すると、讃岐国の国衆は三好氏から離反して独立した。すると、天正5年には安芸国の毛利氏が讃岐国に侵攻した。さらに翌年には土佐国の長宗我部元親が讃岐国の西部に侵攻、香川氏が戦わずして降ったことから、羽床氏、長尾氏、香西氏、十河氏と次々に敗れてほぼ制圧された。しかし、天正13年には豊臣秀吉の大軍が四国を征討、讃岐国の大半が仙石秀久の所領になった。天正14年の秀吉の九州平定の際、仙石秀久は多くの讃岐国の国衆を率いて豊後国に出陣して大敗、多くの国衆が断絶したとみられる。【出典】
【戦国時代とは】