徳島県の戦国史
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■ 徳島県の戦国史 

# 室町時代の徳島県は、守護細川氏が支配していた。阿波国の守護の細川成之は応仁の乱では東軍の主力で、阿波国の武士は幕府内で管領の細川氏を支える立場であった。畿内で活躍する守護の細川氏に代わって、阿波国内は有力国衆である東条氏や一宮氏が細川家の宿老として統治した。【出典

# その後、守護代三好氏が台頭して、国衆層はあるていど守護からは独立した勢力であるのに対して、三好氏は守護の細川氏と密接な関係を築いて対立し、文明17年(1485年)には東条氏らを降して実権を握った。【出典

# 以後、三好氏は畿内にも進出して、細川氏とともに中央政界でも活躍するようになった。大永7年(1527年)に細川晴元と三好元長は十一代将軍の足利義澄の子の義維を擁して堺に拠点をおいて、堺公方と呼ばれる阿波武士による中央政権が誕生した。この際、三好元長は山城国守護代になった。堺公方は、五年間政権を維持して、その後は阿波国に戻って子孫は平島公方になった。【出典

# 三好元長は細川晴元の主力として活躍していたが、次第に決別して、天文元年(1532年)に晴元に攻められて自刃した。嫡男の三好長慶は細川氏綱を奉じて晴元を追い、その後は将軍の足利義輝のもとで河内国大和国を平定し、さらに畿内一円から阿波国讃岐国を支配するなど全盛期を築いた。【出典

# 三好長慶の没後、三好氏は畿内を離れて再び阿波国をその活躍の舞台とするが、あくまで傀儡の守護細川氏のもとで権力を行使するなど、完全な戦国大名への脱皮はできなかった。天正年間に入ると讃岐国国衆が三好氏に叛き、さらに土佐から長宗我部元親が侵攻、長慶の甥で十河氏を継いでいた存保が三好一族を掌握し、織田信長と結んで勢力を立て直したものの、本能寺の変で頼みの織田軍は崩壊した。直後に中富川合戦で長宗我部元親に敗れて存保は讃岐国に落ちて、三好氏による阿波支配がが終了した。そして、天正13年(1585年)には豊臣秀吉が四国を平定して、蜂須賀家政が入国した。【出典

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