和歌山県内の「湯川」の名字の詳細
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■ 湯川(ゆかわ): 和歌山県の湯川家 

# 和歌山県の湯川家: 紀伊国日高郡の国衆。「湯河」と書かれることが多い。清和源氏の出で、甲斐武田氏庶流という。鎌倉時代に東国から熊野に入国した一族で、道湯川(どうゆかわ・田辺市)を拠点として勢力を持ち、熊野八庄司の一つにも数えられた。光春は亀山城(御坊市)に拠って、日高・在田郡にも勢力を広げた。1336年に足利尊氏が比叡山の後醍醐天皇を攻めた際には高師重に属した。その後いったん南朝に転じたが、1360年に足利尊氏が紀伊を攻めた際には、尊氏に呼応して北朝に戻って勝利を収め、室町時代には幕府の奉公衆となった。以後、小松原(御坊市湯川町)を本拠とし、「新庄司」を称した惣領家の他、芳養(田辺市)を領した式部大輔家、京に住んだ安房守家などの庶子家があった。総領家は小松原に居館を構え、後背の亀山に亀山城を築いて拠った。その後紀伊守護畠山氏被官となるが、明応年間の畠山氏の内訌後に紀伊守護となった畠山尚順と対立し、永正年間には尚順を淡路に追放するなど、戦国時代には畠山氏を凌駕する勢力を築いた。1584年には直春は小牧・長久手の合戦に乗じて根来衆、雑賀衆と共に挙兵し、翌年には豊臣秀吉が紀伊に侵攻してくると、縁戚関係の玉置氏らが離反したため、本拠を捨てて山中に逃げて抵抗。1586年に直春が大和郡山で豊臣秀長によって謀殺された。子の丹後守は秀長に3000石で仕えた。1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に属して牢人、後に浅野幸長に仕えた。【出典

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