奈良県の戦国史
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■ 奈良県の戦国史

# 室町時代の奈良県は多くの在地武士が乱立した。合従連衡を繰り返していた、大和武士の多くはその所領を興福寺に寄進しており、僧として興福寺を支える衆徒と、在地領主である国民という立場があった。興福寺には一乗院、大乗院という二つの門跡家があり、一乗院傘下の筒井氏越智氏、大乗院傘下の十市氏・古市氏などが有力武士として知られていた。やがて、北部は筒井氏、南部は越智氏が盟主になって、永享年間になると両者は10年間にわたる戦いののち、筒井氏が勝利した。これを「大和永享の乱」という。【出典

# しかし、嘉吉元年(1441年)に筒井氏の後ろ盾であった将軍の足利義教赤松満祐に討たれると筒井氏は内訌を起こして没落し、さらに応仁の乱の戦火が大和国にも広がって、国内はふたたび多くの国衆達が乱立した。このなかから、越智氏と古市氏が台頭し、十一代将軍の足利義澄が就任すると、越智家栄、古市澄胤が出仕した。ところが、勢力的には越智家栄の方が有力であったが、京では興福寺の衆徒として「律師」の位を持つ古市澄胤が重用されたことから両者が対立、さらに細川政元の家臣の赤沢朝経が大和国に侵攻してきたことで戦乱状態となった。こうしたなかに、古市澄胤は赤沢朝経の養子の長経とともに河内国を攻めたがともに敗死し、古市氏は没落した。【出典

# 天文年間になると筒井順昭が率いる筒井氏が再び台頭、越智氏、箸尾氏を降して、跡を継いだ藤勝(順慶)が大和国国衆層を統一した。しかし、今度は畿内を制圧した三好長慶の家臣の松永久秀が大和国に進出した。永禄2年(1559年)には大和国北部を制して、翌年に信貴山城を築き、三好氏を離れて独立した大名となって、筒井氏と対立した。永禄11年に久秀が織田信長に与して大和国一国の支配を認められ、信長の支援のために筒井氏を攻めた。天正2年(1574年)には筒井順慶も信長に降って、天正4年には松永久秀が信長に叛いて自刃すると、大和国を統一して、本能寺の変後には豊臣秀吉に従って大和一国を安堵した。【出典

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