愛知県内の「菅沼」の名字の詳細
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■ 菅沼(すがぬま): 愛知県の菅沼家 

# 愛知県の菅沼家: 旗本三河国額田郡菅沼郷(愛知県新城市作手菅沼)をルーツとし、清和源氏土岐氏庶流。当初は今川家に仕えたが、江戸時代には交代寄合。【出典】 

・ 交代寄合・旧丹波亀山藩主。三河国額田郡菅沼郷(愛知県新城市作手)の国衆末裔清和源氏土岐氏庶流を称しているが、藤原姓とも言われる。定?は家康の下で活躍、1590年の家康の関東入国の際に上野阿保で1万石を領した。関ヶ原の合戦後、1601年に伊勢長島2万石に加転。跡を継いだ弟の定芳は1621年に近江膳所3万1000石を経て、1634年に丹波亀山4万1100石に入封した。1647年の定昭の死後、跡継ぎがなく断絶した。その後、定昭の弟の定実が、旧領のうち三河新城(愛知県新城市)で7000石を賜って旗本して再興し、交代寄合となった。【出典】 

# 三河国額田郡菅沼郷(愛知県新城市作手菅沼)の国衆清和源氏土岐氏庶流を称しているが、藤原姓とも言われる。菅沼郷の土豪で、島田・田峯・野田・長篠の四家に分かれ、いずれも初めは今川氏に仕えていた。このうち、田峯城(愛知県北設楽郡設楽町田峯)に拠った田峯菅沼氏が惣領で、作手奥平氏、長篠菅沼氏とともに、山家三方衆と言われた。永禄4年(1561年)に定忠は徳川家康に仕えたが、元亀2年(1571年)に武田信玄方に転じた。一族の定利は田峯城を出て徳川家康に仕え、武田氏の滅亡で田峯菅沼氏が滅亡すると、その名跡を継いだ。天正18年(1590年)の徳川家康の関東入国で上野国吉井2万石を領した。また、長篠菅沼氏は定直の二男の満成が祖。子の元成が永正5年(1508年)に長篠城(愛知県新城市長篠)を築いて拠った。貞景のときに今川氏から離れて徳川家康に仕えたが、元亀3年(1572年)に武田信玄が奥三河に侵攻すると子の正貞は武田氏に属した。武田氏の滅亡後には、正勝は徳川家康に従い、江戸時代には紀州藩士。【出典

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