静岡県の戦国史
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■ 静岡県の戦国史

# 今川氏が代々今川氏遠江国守護を務めていたが、今川氏親のときに戦国大名となった。氏親の父の義忠は応仁の乱では上洛して東軍に属し、文明8年(1476年)には将軍の足利義政の命で帰国して遠江国に攻め入って、横地氏や勝間田氏を討ったが、塩買坂(しょうかいざか・静岡県菊川市)で両氏の残党に襲われて討ち死にした。そのとき、長男の氏親は6歳だったため、一族の小鹿範満を擁立する動きがでて内訌状態になった。これを収めたのが義忠の妻の弟の伊勢新九郎(のちの北条早雲)で、氏親を当主として、元服するまで小鹿範満が家督を代行することで決着した。長享元年(1487年)に伊勢新九郎は、今川家の家督を返さない小鹿範満を討って氏親を名実ともに当主の座につけて、その功によって富士郡で12郷を賜って今川氏の一門になった。新九郎はその後独立して興国寺城主になって、堀越公方の足利茶々丸を討って伊豆国を制圧して戦国大名になった。その後は、相模国に進出して小田原城主になった。【出典

# 今川氏親は永正13年(1516年)に引馬城主の大河内氏を滅ぼして遠江国を制圧し、駿河国と遠江国の二カ国を領して「今川仮名目録」を定めて、戦国大名になっていった。大永6年(1526年)に、氏親の死後、嫡男の氏輝は14歳で病弱だったことから、母の寿桂尼(中御門宣胤の娘)が6年間ほど直接文書を発給して分国支配を行った。氏輝が24歳で死去すると、家臣が氏親の二男の玄広恵探派と三男の僧承芳派に分かれて争った。これを天文の内訌という。この争いは承芳派が勝って、承芳が還俗して今川義元を称した。今川家を継いだ義元は、三河国も抑えて、のちに上洛を試みたが、永禄3年(1560年)に桶狭間織田信長に敗れて討ち死にした。そして、氏真の代には次第に勢力が衰え、永禄12年に武田氏北条氏徳川氏に敗れて滅亡し、駿河国と遠江国は徳川家康の支配下になった。【出典

# 今川家の子孫は、江戸時代には・・・・?

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